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最終更新日:2006.11.13 |
館長による「地震災害」のページはシリーズで掲載します。
少しずつではありますが、新潟県中越地震の全貌へと 近づいていくという構成ですので、ご期待下さい! |
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●目次●
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第1回(2004年11月 2日) | ||
第2回(2004年11月17日) | ||
第3回(2004年12月15日) | ||
第4回(2005年3月5日) | ||
第5回(2005年3月19日) | ||
第6回(2005年11月20日) | ||
第7回(2006年1月17日) | ||
第8回(2006年1月26日) | ||
第9回(2006年2月5日) | ||
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第10回(2006年2月8日) | |
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第11回(2006年2月16日) | |
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第12回(2006年3月18日) | |
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第13回(2006年11月13日) | |
第1回 |
アメリカの知人や長い間音信のなかった人からのメール、心配を寄せてくれる人々の声や気持ちがここの森に届いています。ここの活動はすればするほど人々に負担をかけるようなところがあり、選択が難しいことが多々ありながらも、開館以来続けて来ました。多くの支援や協力に感謝いたします。美術館の復興は容易ではなさそうですが、ここの自然は被害も少なく、ましてミティラー美術館の目玉である、真っ黒な墨の闇夜に毎夜来る立体の月は被害を受ける訳もなく、人々の心を癒しています。 |
第2回 |
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ミティラー美術館に関係する4人が震度6強を体験。市内より震源地に近い、この山地の激しい揺れは言葉で表現できない程だった。その後訪れたボランティアから聞かれる度に、当時の模様を話しているのを横目で見ながら、今後このパターンが限りなく続くのは本人たちに良くないと思った。復旧が優先で本人から聞く間もなかったこともあって、録音ができる携帯があったので、まずは口実筆記をした。結果的にその文章を本人たちが校正できたので、ここで紹介します。 |
第3回 |
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10月23日(土)、震度7の大地の揺れは新潟県中越大震災と名が改められた。すでに52日を経過した今、新潟日報社の緊急特集・報道写真集や十日町市の11月25日発行の市報、市内の地元紙、口コミや、全国紙で伝わる情報を合わせて見るとこの地震の全体の概要が見えてきた。
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第4回 |
昨日(2月26日)、余震があった。夜の11時頃、その揺れは今までの大きな地震と同じような揺れで、そのまま、大きな震度6や7になるのかと一瞬、固唾をのんだ。私だけではない。月見亭に避難している家族や美術館で、眠っていたスタッフの蓮沼さんや、北海道の帯広から来たボランティアの奈良さんは、美術館がぎしぎしと鳴り始めたので、ここで死ぬかと思ったそうだ。教員住宅で、本を読んでいた佐藤君はただ地震だと思ったそうだが、それでもパソコンに修復した壁に残っていた土壁の粉が入らないように、ノートパソコンのふたを閉じた。犬のシルバーは、起き上がり様子をうかがっていた。今までも余震がこの程度はあったが、その都度態度が違う。やはり犬も、このまま大きくなっていく、底から突き上げるようなあの記憶が、現実となって来るのを、身構えていたのだ。早速ラジオをかけてみる。電波が悪く、テレビをつけてチャンネルをまわしても情報が出ない。地震後、素早くテレビに出るようになった情報も今回は遅い。それでもチャンネルを回しているとやっと出た。「おい、震源地は(信濃川を隔てた)となりの川西町みたいだぞ。」川西町震度3、震源地は10キロの深さ、マグニチュード4,2。今までの震源に比べてより十日町に近くなった実感がした。(今までの多くの震源地、川口町、小千谷も十日町市のとなりだが、川西町は広い範囲で十日町と接している。) |
第5回 |
月見亭でも風呂に入れなくなり、水がほぼ使えなくなってから2ヶ月が経過した。その原因を知る上で最も見たかった山の中腹にある小水槽を、3メートル以上の雪の中から発見することができた。 |
第6回 |
チャルクラ舞踊団が10月29日に帰国したあたりから、復旧のための仕事が徐々に本格化していく。9月9日に来日して、現在も絵やテラコッタの修復や片付け、大工仕事、また壊れたテラコッタの再生に取り組んでいるワルリー族のサダシヴ、ゴルカナ、ビハールの陶工ララ・パンディットら3人の協力を得ながら復旧作業が進んでいく。 |