[HOME][戻る]
地震災害◆
by館長

最終更新日:2006.11.13

館長による「地震災害」のページはシリーズで掲載します。
少しずつではありますが、新潟県中越地震の全貌へと
近づいていくという構成ですので、ご期待下さい!
目次
第1回(2004年11月 2日)
第2回(2004年11月17日)
第3回(2004年12月15日)
第4回(2005年3月5日)
第5回(2005年3月19日)
第6回(2005年11月20日)
第7回(2006年1月17日)
第8回(2006年1月26日)
第9回(2006年2月5日)
第10回(2006年2月8日)
第11回(2006年2月16日)
第12回(2006年3月18日)
第13回(2006年11月13日)
第1回

第1回
(2004年11月2日)

 アメリカの知人や長い間音信のなかった人からのメール、心配を寄せてくれる人々の声や気持ちがここの森に届いています。ここの活動はすればするほど人々に負担をかけるようなところがあり、選択が難しいことが多々ありながらも、開館以来続けて来ました。多くの支援や協力に感謝いたします。美術館の復興は容易ではなさそうですが、ここの自然は被害も少なく、ましてミティラー美術館の目玉である、真っ黒な墨の闇夜に毎夜来る立体の月は被害を受ける訳もなく、人々の心を癒しています。
 横浜山下公園でのディワリフェスティバルに参加していたのが23日。宿泊の三ツ沢・野外活動センターに前日夜遅く着き、つぎに訪れた時にも遅くなり、きつくお叱りを被りました。地震のあった当日はそこからゴティプアとラージャスターンの舞踊団を連れて、ラージャスターンを山下公園に降ろし、ゴティプア舞踊団を連れて埼玉県の鶴ヶ島市のフェスティバルに参加した後に山下公園に戻り、今度はラージャスターンを連れて大田区の大田文化の森で行なわれているベンガルの人々のドゥルガ・プジャ・イベントに参加。インド人同士なのでほとんどをまかせて夕暮れ時に町を歩いていると携帯電話で知人より新潟に大きな地震があったようだと知る。菜食である私は入ったことのない中華料理店を通ると新潟の地震の模様がテレビに写っており、人々が食べながら凝視しているので、その中に入り見せてもらった。新幹線が脱線したこととか、どうも十日町を含む近隣の都市が大変そうなのがわかる。携帯で色々なところに電話しても連絡が付かない。ラージャスターンの舞踊団を連れて考え事や連絡を取っていたせいか、道を間違えた結果高速に乗らないまま、銀座へ。途中で行き着けのパイプや葉巻を買う店の主人から緊急に治療を受けられる病院を教えてもらって、足がかなり化膿しているラージャスターンの歌い手を治療。そこのテレビで状況をさらに知る。そこから宿舎に協力してもらっている埼玉飯能のお宅へ向かう。宿舎の事や朝食の事など、後から呼んだゴティプアの舞踊団が泊まる江戸川区からやってきたスタッフに引き継ぐ。やっと十日町市役所と連絡が付き長野経由千曲川沿いの道で十日町に向かえる事を確認し、出発。十日町小学校に朝6時頃到着して、壊れたガラスが散乱する小学校に入る。大勢の避難している体育館や他の教室の中から息子を捜すのは簡単ではなかった。一時あきらめかけたが、というのは毛布をかぶって寝ている人に声をかける訳にはいかないし、関係者も誰が泊まっているのか把握している訳ではなかった。まず、大池の方にと思ったが若い女の子に声をかけたら分かるという。一緒に乗せて来た娘と息子と美術館に向かう。途中、二ヶ所で上に上がれないと言われたがとにかく見に行ってみると、現在不通になっている道路の亀裂がひどく乗用車が道路の割れ目を乗りながら、菅沼へ。そこにワルリーのサダシと犬のシルバーと松井さんがいた。無事を確認するのが第一段階。余震が続く中、東京・埼玉にい
 菅沼に着いた後には美術館にまずは娘と息子と向かった。玄関が入れないくらい、すべてのものが倒れている。美術館の入り口の方もパネルで隠して、しまってあった展示用のパネルが全て受付の方に倒れかかっていて入れない。建物はなんとか無事だったが、裏が崖の美術館の駐車場には3,40センチの亀裂が道に沿ってできている。崖のところから覗くと村の人が使用していた二階建ての小屋が崖崩れとともに80メートル先の崖下に落ちている。美術館の裏からなんとか入り、体育館の展示室へ。廊下の両脇から壁に打ち付けたパネルが倒れかかっている。館内を一つ一つ確認しながら展示室に入る。大型のテラコッタは、ほぼ壊滅。壁面の展示パネルが倒れかかり、絵が宙ぶらりんの状態だったり、パプアニューギニアの人たちが掘った最も重くて大きなスリットドラムが後ろに転がり、テラコッタをつぶして止まっている。ニルマニ・デーヴィーの大きな素焼きの壷が崩壊。二年の歳月をかけて描いたゴダワリの「ダルマ」が倒れていたが、なんとか傾斜をつけて壁に立てかける。高さ4メートル近いシーター・デーヴィーの絵は横にずれかかっているが、柱にしっかりと固定してあったので無事。ガンガー・デーヴィーの貴重な美術館の正面に飾られていた絵は倒れていて、戻すと真ん中がふくらんだ状態になっていた。これは修復可能。テラコッタで作成した大きなインドの神々もほとんど皆、首が折れたり、ぐしゃぐしゃになったりの状態。10月26日から始まるワークショップと公演のために前日の夜に松代・柏崎経由で無事舞踊団と合流。その後のスケジュールをこなして、10月31日、ゴティプア舞踊団と共にミティラー美術館に戻る。10月27日の聖籠町のワークショップの時には余震があり、ワークショップをしている時に校長先生からメモを見せられ、中越は震度6弱。携帯に連絡が入り、解説をして子供たちをわかせ、舞台袖に入り、美術館のコーナーの柱が土台から外れそうだからどうしたらいいか、大池の森に来ていた2人のボランティアが協力してくれているがどう指示したらいいのか。そんなやりとりをなんどもしながら遅れて舞台袖をでていくとゴティプアの太鼓を叩くカイラシュが英語で次の指示を出したり、彼らも結構慣れてきていた。
 自炊型の舞踊団の受け入れは食べ物が違うし、ラージャスターンはご飯よりはアタで作った厚いチャパティ。何かと面倒な仕事をスタッフが苦労しながらこなしている。その晩には十日町に戻り、ユンボを使って、柱がそれ以上動かないようにユンボの手を柱に押しつける。二階に上がる階段を支える柱が外れていたのも、ジャッキで上げ窓の外から太い丸太を入れ、ユンボの手を動かし丸太を押し柱を少しずつ動かし修復。
 翌朝には開通したばかりの関越道の六日町から群馬のお寺に。ワークショップのぎりぎりに到着。長靴のまま寺に行くと裸足になって解説。このあたりから私の胃も悪くなる。今もお粥を食べる。今日、11月2日、スタッフやJIVAのかつて20名ほどミティラー美術館にボランティアをつれて来た人が加わり、ワルリーの2人やゴティプアのリーダーたちも手伝い、山と出た土壁の瓦礫や燃えるゴミを町に運び、処分。少しずつだが美術館の中を歩き回れるようになってきた。
 大池で地震を体験した、ワルリーのサダシと松井さんは精神的に回復に向かい始めているが、長い時間がかかりそう。サダシは未だに2階に上がれない(2階で体験)。松井さんは今でも美術館に入るのを躊躇し、微弱な余震でも強い緊張を持つ。2人の精神的なものが癒されるのはこれからだ。


第2回

第2回
(2004年11月17日)

 ミティラー美術館に関係する4人が震度6強を体験。市内より震源地に近い、この山地の激しい揺れは言葉で表現できない程だった。その後訪れたボランティアから聞かれる度に、当時の模様を話しているのを横目で見ながら、今後このパターンが限りなく続くのは本人たちに良くないと思った。復旧が優先で本人から聞く間もなかったこともあって、録音ができる携帯があったので、まずは口実筆記をした。結果的にその文章を本人たちが校正できたので、ここで紹介します。
 その前に、先日13日に赤倉で庚申講が春川さん宅で行われました。そこで出た話題を先に報告します。地震があってから21日目だというのに参加した5軒の村の方々は今でも1階に寝ているそうです。高校生のお孫さんも2階には寝ようとしない。参加したお爺ちゃんたちは普段着のままで玄関先か玄関に近い所で寝ている。枕元には必要なものをバックに詰めいつでも外へ飛び出せる用意をしている。ある人は未だに2階の奥の部屋に不安で行けないそうだ。そこがぐちゃぐちゃになっていると思えるが、整理するために戸を開けられない。ある家の障子戸が、縦にいくつもきれいに破れていたかと思うと、他の家は横に幾筋も破れていたり、破れない家もある。大黒様が殆どの家で落ち、それを置く方角からして横揺れが震源地からこのように伝わり、町の方に行ったのだろうと、話し合っていた。カモシカがもういなくなった、いや1頭いたのを見たとか。熊はここら辺は通りかかるだけ、それでもいなくなったようだ、という話しになった。地震の前にカラスがここら辺では初めてと言うくらいやって来た。それは直前というわけではないが、30羽ほど数えたが、その後数え切れないほどやってきたので、田圃に来たら大変なことになる。そのような自然の予兆についても話がいくつも出た。1回目の地震があった時には皆それぞれ、場所の広い所に出てきた。晩は元赤倉小学校に村全員で夜を過ごした。大池と同様赤倉も道が分断され、孤立した。町にいた春川さんのお嫁さんは四日町の交差点のどさん子ラーメン屋の辺りで車に乗っていたが、急に車が動かなくなって、故障したのかと思っていたら信号機が消え、何かあったと思った。エンジンを切ると大きな揺れに遭遇して、道路が大きく波打って見え、地震だと知る。信号が動かないので、信号機のない所を通って近くの実家へ。そこに着くと、みんなが家の中にいたので、早く外へ出るように言う。その後の大きな揺れを2度、外で体験した。今でも実家の2階は建物自体が隣の家に倒れかかっているので、怖くて上がれない。彼女は1週間ほど赤倉には戻れなかった。怖くて行けなかったと語った。その彼女から町の様子がみんなに語られた。十日町の老舗の旅館は危なくて、既に取り壊された。20軒ある旅館の10軒は営業を再開できないでいる。
 家は大丈夫だが、隣の家やビルがいつ倒れたり、壊れるか分からなといった人たちを含んで、避難している人たちが相当いる。道はあちらこちらで隆起、陥没していて、特にほくほく線のトンネルの上、新座を中心とする辺りのトンネルは縦穴工法で地上から降りて作った後、埋め戻してあるため、そのライン上にある家はひどい被害にあっている。昔田圃があった所にある大型店の所は液状化現象が起き、あちらこちらが隆起したり、陥没したりしている。それでも地震後すぐ店舗まえで品物の販売を開始した、それが良かったこと。その事が可能だったのも長野から飯山沿いのルート、東京から塩沢を経由したルートを通ることができ、他の孤立した、震源地に最も近い川口、小千谷とは違ったこと、などが話しとなった。赤倉出身の赤倉商店は難しい。元滝文の建物は釘を使わない、ホゾを使った建物で大丈夫だったが、その立派で大きな石垣の一部は道に倒れた。ちょうどその辺りを軽自動車で通っていた時、揺れで歩道に乗り上げてしまった。1回目の地震の時に、丁度テンプラを揚げていたが、火をと言って、油がチャボンチャボン揺れる中、親戚のおばちゃんがあっという間に火を消した。長岡や小千谷と違って十日町は都市ガスではなくてプロパンなので、それが幸いした。そのプロパンを電話回線を通して管理しているので、それぞれの会社が地震の時に供給をストップ、あるいは各家の機械が作動してガスが止まった。十日町では火事が起きなかった。ここで使っている家の中にはその装置もついていないところもあり、そういう意味ではいろいろな偶然が幸いしたのだと思う。一夜過ごした元赤倉小学校から町の方の空を見て、救急車やサイレンの音がひっきりなしに鳴るのに、空が赤くならないので、火事は起きなかったのかなと思った。
 「庚申講」の集まりは赤倉5軒、大池の私が1軒。6軒が持ち回りで、2ヶ月に1回庚申様を祭るもの。その場ではキノコの話や、村のこと、天候、政治に至るまで、私にとって興味のつきない話題が次から次に出る。おまけに参加している人たちは赤倉神楽の三味線と歌い手の長老だったり、みな芸達者で、天神囃子を歌った後、酒の力も借り唄が出る。元々年寄りたちの活躍する場の意味があったとも言っていたが、今回でこの庚申講も最後にしようと決まった。坂を上って来るのも辛いといった話が出る。腰が悪く今後も参加できそうもない。病院に週何回か通わなければならないので日にちが合わなく参加できない人もいるなど。それぞれ事情が語られ、復旧作業の途中でなんとか駆けつけた私に皆でこう決めたんだけどと伝えられた。毎年インドの舞踊団が来る8月頃に開かせてもらった大池で庚申講もどき、かもしれないが、みなさんを来年もお呼びするというのはどうでしょうかと言うと、2、3日前に連絡をくれれば集まると言ってくれた。また、若手たちを誘ったらと声も上がった。継続するかどうかは長谷川さんの腕次第というようなことも言われた。この地区で、あったこともない、想像もできなかった妻有郷、有史以来の大地の揺れは、村の人の心に、山が崩れるように揺さぶっていたようだ。



第3回

第3回
(3004年12月15日)

 10月23日(土)、震度7の大地の揺れは新潟県中越大震災と名が改められた。すでに52日を経過した今、新潟日報社の緊急特集・報道写真集や十日町市の11月25日発行の市報、市内の地元紙、口コミや、全国紙で伝わる情報を合わせて見るとこの地震の全体の概要が見えてきた。
 10月23日午後5時56分頃、深さ約13キロ、マグニチュード6.8の地震が発生。震度計による観測が始まって以来、初めての最大震度7を観測。午後6時11分頃、マグニチュード6.0、6時34分頃にはマグニチュード6.5の地震が発生し、いずれも最大震度6強を観測した。本震・余震いずれも深さ5キロから20キロの浅いところから断層がずれて発生した直下型地震。この地震によって長さ約21キロ(南北方向)、幅約10キロ(東西方向)の断層が北西側から南東方向に向かって約1.8メートルずれる。震源地に近い小千谷市の観測地点では約24センチ隆起し、南西方向へ約9センチ、移動した。本震後も断続的に発生している余震は11月3日までに震度1以上が述べ652回、また、本震発生から4日後の10月27日(水)午前10時40分頃にも震度6弱(マグニチュード6.1)の余震が発生。震度5以上の余震が長期間に断続的に発生していることが今回の直下型地震の大きな特徴。今回の震源周辺では顕著な地震発生記録がほとんどなく、犠牲者が発生した事例は1828(文政11)年にまで遡る。この年の12月に発生した三条地震はマグニチュード6.9の規模で、死者は1400人を超えたと記録されている。三条地震から今回の地震まで176年間、大きな地震は発生していなかった。新潟としては40年前の新潟地震以来の大地震。阪神大震災を大きく超える加速度が観測された。
 揺れの強さを測る一つの加速度は震源に近いほど大きく、過去の例から震源からの距離の関係が割り出されている。加速度818ガルが観測された阪神大震災(M7.3)は過去の傾向と同じ。今回の断層から10キロの距離から想定される200〜800ガルをはるかに超える1750ガルを十日町市では記録された。(基礎が固定されていない建築物が飛び上がるほどの強さ)川西町では観測史上最大の2515.4ガルを記録した。このような特大の揺れは地震の断層が活動回数の多い断層ではなく、初めてに近いか回数が少なくて長期間動いていなかった、力が溜まっていて、複雑に断層が割れ、大きめの余震が多くなったと推測されるそうだ。
 地震を起こした震源断層は、これから特定される努力がされていくのだろうが複数の断層が刺激によって地震を発生させたという指摘や群発型に近いという発言等が専門家から言われている。1995年の兵庫県南部地震のように本震の後、余震が徐々に減っていくタイプの地震とは異なることだけは確か。震源地にあるいはそれに近い小千谷市、川口町等では立て続けに発生した震度7.6強の強い地震の間も震度5前後の余震が数次に渡り間断なく発生。それが被害を大きくした。
 中山間地の山古志村では家屋被害に加え、地すべりにより道路、河川が分断され、全村民2000人余りが避難し、仮設住宅への入居が現在行なわれている。全体としては最大加速度を持つ強い上下動があったにもかかわらず家屋被害が予想外に少なかったのは、豪雪地域の構造建築が幸いしたと見られる。これが家屋倒壊による死者が少なかった原因。時間帯も夜寝ているときであれば上から物が落ち、人的被害は相当なものになったろう。屋根に雪が重く乗っかっていた時であれば、被害はどのようになったか想像もつかない。
 被害という面では震度、マグニチュードや加速度(ガル)だけでなく、揺れの周期を表す地震波が家屋の被害と密接に関係している。周期の短い揺れは家屋を動かし、人間も大きく感じる。周期が長くなると家屋の被害が広がる。さらに長い周期だと高層ビルや石油タンク等大きな構造物の影響が大きくなる。今回の地震は家屋に大きな被害が出る周期1〜2秒の揺れが阪神大震災より小さかった。0.1秒〜0.4秒ぐらいまでの人が揺れを強く感じ、室内の物品が動く、この周期の強さは、十日町が小千谷や阪神大震災よりも極度に高いが、建物に中小の被害を出す0.5〜1秒の周期は阪神大震災よりも小千谷が極度に高く、逆に十日町は低くなる。建物に大きな被害を起こす1〜2秒は阪神大震災が大きく、小千谷は阪神大震災に対して半分近くにも減り、十日町は0に近くなる。
 山古志村では地すべりを主とする土砂災害が起きた。新潟地域は日本列島有数の地すべり地域として知られ、全国の2割の地すべりが発生している。その地すべりは第三紀層地すべりと呼ばれ、もともともろい泥岩が山地を作り、古くから地すべりを繰り返している。この泥岩はフォッサマグナ地域が海底だった頃の約1千万年前から100万年に数メートルの厚さで堆積し、その隆起によって山地を形成した。中越地震被害地域を含む新潟地域は世界有数の活構造地域、地すべり多発地域、豪雪地域でもある。今回の地震はこのような場に発生した。
 被害状況からすると非常に強く振動した地域が点のように散在するという。
 川口町を震源とする1回目、2回目の地震の震源地から十日町市の東下組はわずか4キロでしかないことが地図を見るとわかる。三回目の致命傷になった地震の震源地からは赤倉の村の人が言うように赤倉、ミティラー美術館のある大池、菅沼を通って町へ地震が走った事がわかる。十日町市の映画館や商工会議所ビル、織物関係の古い大きなビルは建て直しを余儀なくされる被害を受けた。十日町病院、中条病院では入院患者を県内外に移転、未だに全員が戻れていない。
 大池の教員住宅の土台柱はコンクリートの基礎とのつなぎの鉄のアンカーを露出させるほど外と上に飛び出していた。鎹(かすがい)も2本(わかった範囲で)折れていたが、基礎のコンクリートと土台柱を固定したような建物は力の逃げ場がなく、激しい揺れにあちらこちらと壊れていく。これに比べて四軒の美術館の使用している元民家は土台が平たい石に角材を立てた上に乗っているという構造で菅沼の諏訪神社や千手観音の社は土台を支えている角材が横倒しになったり、お堂そのものが飛んだように地面に着地しているが、民家の方が無事だったのは、揺れの強い力を逃がすことができたからだと思える。民家は先祖代々平安の頃から住み着いて暮らし、今使っている家の土地も数世代にわたり、家が建てられてきた土台のしっかりしたところと考えられる。それに比べ被害の大きかった元学校の美術館や教員住宅は立てるために土台を整備したところ。
 市内のほくほく線のトンネルの上にある住宅は一様に被害を受けた。地上から穴を掘ってトンネルを堀り、その穴を埋めた後に整地し、家が建った。?北越急行と地域の人々の協議が今も続いている。
 最近、ねずみもこの月見亭に戻り始めた。地震の後、数日は鳥や生き物たちも続く地震に静まり返っていた。地震前後の生き物の行動情報をミティラー美術館で星を見る会を開催してきた川西町の南雲さんがHP(http://www.neptune.jstar.ne.jp/~tngc253/)で情報を集め、公開している。
 雪も既に一度降り、朝は霜が降りる。地震の後、瞬く間に二ヶ月になろうとしている。相当、色々なところを直したり、土台を動かしたりしてきたが全体を見回してみると、まだ一向に復旧が進んでいないと感じられる。これだけの規模で破壊されると、人力で元に戻していくのは長い道のりなのだろう。全て今までとは異なる余分の仕事、新しい体験のために。どのぐらいの時間がかかるのか、なかなか見えない。何かやろうとすると余分なことが次から次にやってくる。突風が吹いて、ワルリーハウスと呼んでいる家の屋根が畳二枚分はがれて飛んでしまった。そのことをスタッフから告げられ、直しにかかる。道具や材料は全てそろっている。2人で半日仕事。(上ってみると、屋根も相当揺さぶられ、当然のごとく変化が起きていた)台所の食事する部屋に全て石膏ボードを貼り、押入れのところに元あったように戸棚を入れようとすると、壁に打った石膏ボードの厚みで入らない。古いどうってことのない戸棚だから、丸のこで切って、鋸(のこぎり)を入れ補強などしながら二センチ短く戸棚を作り変える。半日仕事。それでも少しづつ仕事が進んできた美術館の応接室や台所周辺。夜作業になるとかなり寒くなり、割れた玄関のガラスやあちこち割れたガラス戸が気になり始める。さしあたり、化粧ベニヤを切って、サッシの戸にはめる。これが意外と時間がかかる。ガラスを止めていたゴムを合板の周りにはめてから入れようとすると二人から三人がかり。サイズが合わないと鉋(かんな)で削ったり、結局、ゴムは使わないではめる。
 バタバタと作業をしている中、大地の芸術祭の若者たちが土日に協力してくれたり、昨日は二回目となる三条の洪水被害を受けたという女性たちがやってきて手伝ってくれた。
 今まで大工仕事とは無縁、棚ひとつ作るように頼んだとしても、まずできないというか、やり方を教えて始めたとしても、体験やイメージ的蓄積がなく行き詰まってしまうだろうと思えるスタッフが何度もビスを打ったり、周辺の仕事をこなしているうちに、例えばここに石膏ボードを打っておいて、ここに胴縁をと言うだけでそれらが少しづつ終わっていくようになった。息子も同じで学校を休んで手伝い、自宅勉強と共にやっている。16歳の少年が胴縁や石膏ボードをまかされて、貼っていく姿はアジアっぽくて良い。
 地震直後は揺れの煙が残っているような雰囲気がこの森にあった。崩壊した色々なところを直していく、駆けつけて来たボランティアたちが、夜遅く真っ暗になった頃、懐中電灯を頼りに月見亭に集まってきた。彼らにアフガニスタンのルバーブを出して即興で音によるヴォーカルを歌った。その音楽がこんな時には最も合いそうに思えた。
 行政の人やいろいろな人々が前とは違う雰囲気を持っていると私には感じられる。皆、一様にある種の共有感や悲哀や優しさが生まれているように思える。それまでは異なるものや自分に必要と思えるもの以外には厚い壁を持っていたり、心の中に距離や見下したり見上げたりといったところがより強かったと思う。今、黒塗りのあるいはぴかぴかの高級車がここには合わない。むしろ、ここの自然に合うものがぴったりだ。泥まみれの長靴を履いて、人のいるところに出て行ってもある程度許されるようなことは、ものより他のものが大事になっているからだろう。
 ここの場から発して東京にまで震度3の揺れを伝える力はどれくらいのものなのか。私の使っているユンボだったら何台分になるのか。そのように考えていくと、とても考えられない力が発生したと思える。
 私自身にも変化が起きていた。壊れたところを色々直していくと結局家の土台に顔を突き合せなければならなくなる。全てはそこから始まっていて、家の周りを回って土台と地面との関係を見ていく。2センチ、3センチ動いた動き方やその痕跡が地震とも言える。先日、東京に車で行った時、目に見えてくるのは建物の土台。そういう自分が一番気になるのは美術館の裏側の切り取ったような急斜面の崖。時たま、そこが見えるとこに立っては見ている。ここの森に来たての頃、作った詩集「宇宙感応」の中に森は海に歩いているという絵と言葉を書いたような記憶がある。その歩みを少し遅くしてもらうには、どのような方法が可能なのか。先日、消防署の人たちと市の管財の人たちとの話で、崖っぷちに立っている2000リッターの灯油が入るタンクを収蔵しているブロックの貯蔵庫がいつ崖下に落ちるかわからないので家庭用の大型の灯油タンクを買って、美術館裏に置くことに決めた。激甚災害法指定によって国や県、市の支援が始まりつつある。月見亭は半壊、教員住宅は大規模半壊と認定された。それぞれの家が支援を足しにしながら改修していく。支援はあくまで居住の建物に限るということで、美術館はその対象にならない。まだ展示場までは手が届かないが、2月の第3土曜日、十日町市の雪祭りは例年のように大きく開催はしないようだが、そのあたりで美術館の仮オープンにこぎつけられたらと考えている。その日は十日町雪祭りが開催されるが、規模が相当縮小される。そこで、ここの活動が町の景気づけの一つにでもなればと思う。

参考文献
特別報道写真集 「新潟県中越地震」
朝日新聞 10月27日 30面
讀賣新聞 10月31日 1面
市報「とおかまち」11月25日 第926号 P2〜3
十日町新聞
十日町タイムズ


第4回

第4回
(2005年3月5日)

 昨日(2月26日)、余震があった。夜の11時頃、その揺れは今までの大きな地震と同じような揺れで、そのまま、大きな震度6や7になるのかと一瞬、固唾をのんだ。私だけではない。月見亭に避難している家族や美術館で、眠っていたスタッフの蓮沼さんや、北海道の帯広から来たボランティアの奈良さんは、美術館がぎしぎしと鳴り始めたので、ここで死ぬかと思ったそうだ。教員住宅で、本を読んでいた佐藤君はただ地震だと思ったそうだが、それでもパソコンに修復した壁に残っていた土壁の粉が入らないように、ノートパソコンのふたを閉じた。犬のシルバーは、起き上がり様子をうかがっていた。今までも余震がこの程度はあったが、その都度態度が違う。やはり犬も、このまま大きくなっていく、底から突き上げるようなあの記憶が、現実となって来るのを、身構えていたのだ。早速ラジオをかけてみる。電波が悪く、テレビをつけてチャンネルをまわしても情報が出ない。地震後、素早くテレビに出るようになった情報も今回は遅い。それでもチャンネルを回しているとやっと出た。「おい、震源地は(信濃川を隔てた)となりの川西町みたいだぞ。」川西町震度3、震源地は10キロの深さ、マグニチュード4,2。今までの震源に比べてより十日町に近くなった実感がした。(今までの多くの震源地、川口町、小千谷も十日町市のとなりだが、川西町は広い範囲で十日町と接している。)
 大池は、雪の森となっていて一時は4メートル50を超えたのではないかと思える。1月11日から降り続いた雪は、19年ぶりの豪雪となり、途中少し休みがあったものの2つの大きなピークを中心として今年の雪は過疎のこの部落を襲った。大池は池を中心とする池之端とその先の本村と呼ばれる所があって、かつては26件ほどあった。現在も、本村に屋号で次郎、孫吉という家には人が住んでいる。次郎さんのおばさんは、千葉の娘さんのところに地震後避難している。孫吉さんたちは、街にいる長男の家に雪のために避難。次男の息子さんが一人で住み、雪掘りをして茅屋根の家を守っている。本村に行く途中、雪崩の箇所があり除雪が間にあわなくなり危険と言うことで、圧雪となる。道を無理にあけようとすると左側の崖のような斜面に積もった雪の根っこが切られてしまうために雪崩が起きやすくなるからだ。電線や電話線に杉の木が倒れかかったり、その枝が雪のために曲がり、電線を押していく。このような情報は自分で見たり、もうすでにここに住まない村人が、村に残してある家の雪掘りに来た帰りに見たことを教えてくれるので知ることができる。美術館への道も高くなった両脇の雪の壁や雪を捨てる場所がなくなってしまったことで、ショベルカーと言う機械の除雪ができなくなり、美術館までの道も圧雪となる。
 雪掘りは6件の家を終えて、屋根に登ってスコップを掲げても、届かないほどの雪を何日もかけて掘ると、もう既に最初に掘った家の屋根は、2メートルを超えるほどになっていた。
 2月23日に仮オープンを予定していたが、困難となってしまった。ほとんどこの1か月半は雪掘りに明け暮れる。そうした中、水が止まってしまう。今は、下の津池部落も給水車がやってきて、毎日水槽に水を入れている。地震によって水源から水が逃げたようだ。十日町市内でも除雪の道路融雪の井戸水が出なくなったり、出なかったところが出るようになったり、地下水脈が動いている。ただ津池も大池も雪崩の危険のある水源地の雪をほるわけにはいかないので、想像するだけなのだが。大池の場合、水源地の近くに泥よけのための小さな水槽があるので、そこが雪崩や土砂崩れでやられている可能性もある。ただもともと地震は地下で起きたもの。私たちは家が壊れたりとか、山が崩れたとか、見えるものの大きさに意識がいき、見えないものはわからないため、そこへの気持ちは少なかった。水が止まった時、雪は4メートルを超えていた。使用している家の水道管から水が漏れるとか、何かほかの理由ではないかと、家に行くだけでも雪をかき分け大変な思いをして各家の水漏れを調べ始めた。順次たどっていき、とうとう源泉から70メートル近いところにあるバルブの上の雪をどかし、土を掘りパイプにくる水を調べた。最初は大量に流れるので、記念の写真を撮ろうと水道のパイプのところによった。が、突然水は流れなくなった。また少し流れる。最初流れた水はホースに溜まっていた水。どうも源泉に近いところが原因らしいとやっとわかったので、室内の水を供給するポンプを購入し、風呂場に水を隣部落からもらってきて、ブルーシートをかけた浴槽に、水を入れる。大池は市の上下水道ではなく、個人がそれぞれ水を引いているので、市の支援は一切無いということがわかった。
 津池は市の上下水道なので市の責任ということで給水車が来て、消防小屋のポンプを使って貯水タンクに水を入れる。
 水は少しは来ているようなので、本管を探そうと大池の水飲み場から本管につながる管をたどり、本管を発見し水源に近いところから、内径5センチのポリの水道管をつなげる。そのような作業が時には、夜中の2時に及ぶこともあり、照明を当て、ユンボで4メートル下の土を出し、更に機械と人力で30センチから1メートル近くに埋められた水道管をたどりながら、とうとう本管を発見した。(詳しくは水道日誌をご覧ください)
 中越地震は、全壊2030棟、半壊4431棟、一部損壊41896棟(新潟県)、また十日町市では、全壊43棟、半壊187棟、一部損壊387棟(11月18日現在)という数字が公表された。現在十日町では、全壊102棟、大規模半壊119棟、半壊792棟になっており、11月に発表された県の数字は倍以上になっていると思われる。しかし美術館(実質的には大規模半壊)のような事業活動をする建物は、計算に入らない。美術館に関係する生活をしている家をしては、月見亭が半壊、教員住宅が大規模半壊、という認定となり少し支援を受けられることになった。しかしそれも3月末までに応急修理を済ませなければならない。今は3月4日。これから2つの家のまわりの雪を全て取り除かないと作業はできない。今日からそれにかかろうと考えている。修理作業を本格的に開始するにも、美術館の台所、音楽室の道具置き場として、また、大工仕事ができるようにしていかないと、など簡単ではない。美術館の圧雪道はユンボで数日かけ除雪したが教員住宅への急な坂道の道あけは困難と危険がともなう。月見亭の道路は道路除雪の度に雪が壁におしやられ、その土台直しはめんどうだ。
 2月16日、美術館裏の大きなシベリア杉が100メートル先の沢に落ち、燃料倉庫は3分の1ほど崖に飛び出す格好になった。それでも寒い日に、その貯蔵庫から燃料を抜き取ったり、入れてあった草刈り機や重機用のオイル、トタン等をスタッフやボランティアのリレーで救出した。その数日後、貯蔵庫から受け取ったわずかのスペースも今は崩落している。刻一刻と崖が美術館によって来ている。見えない力が見え隠れしながらやってきているように感じられる。
 家の土台や復興に気持ちと時間を費やしてきたが、更に見えない世界にも気をかけなければならない状況にある。


第5回

第5回
(2005年3月19日)

 月見亭でも風呂に入れなくなり、水がほぼ使えなくなってから2ヶ月が経過した。その原因を知る上で最も見たかった山の中腹にある小水槽を、3メートル以上の雪の中から発見することができた。
 2日前(3月17日)には、5年ほど前に小水槽で作業風景を撮った写真から、スタッフが場所を検討して、ここだと思えるところにスコップと車の雪下ろしの道具をたてて置いた。しかし、ユンボでの作業中に小さな雪崩が起き、スコップは雪で埋まりわからなくなり、道具の方は10数メートル下へ押し流された。雪崩が始まったとき、雪崩箇所から10メートル近くの場所にいたので、崩落の動きを見ながら運転席から足をキャタピラに乗せ、一瞬対応を考えながら落ちていく雪を見守っていた。
 まだ落ちる可能性があるため、その後は雪崩監視役をつけての作業だったが、ついに懸案の場所を見つけることができた。源泉からの水が少しはでているので、その量を計算して今後どうするか考えていかなければいけない。(「水道日誌」参照)
 月見亭(半壊)、教員住宅(大規模半壊)の応急修理に対する国支援の工事終了期限3月20日、県の支援3月末の作業は、月見亭の工事をした大工さんとの共同・協力作業で終えることができ、後は期限のない修理・改築に向かうことになる。昨年の10月23日の大地震以来、すでに4ヶ月目になろうとしている。この間(特に今年に入ってからは)、雪と水のために復興作業はほぼ停滞状態だったが、それでもこなしていった作業を通して私はじめスタッフもすっかりいろいろなことを覚えてしまった。
 そのことは、今後の復旧作業の方針にも大きな影響を与えていく。というのは、収益がほとんどない美術館活動。ハードにはほとんどお金を使わず、ソフトにだけコレクションの充実や文化活動にそのエネルギーとお金を使ってきた。そこで、ワルリーハウスを直すとしても、水道関係は専門家に今までは頼まなければならなかった。そうなると、限られた予算との関係で、やれることはとても小さな形にならざるを得なかった。それが今は全部自分たちでやることができるので、中古のシンク(台所の調理台等)をどんなものを買っても、それに合わせて水まわりを変えることができる。他にも、床張りや土台も変えることができるから、以前大工並みの仕事ができるボランティアの協力で始まったり,予算やその人が本業に就いてしまったため、仕事が途中で終わったままになっている七郎さんの家を改造すれば、絵画や小物の収蔵庫にすることができる。そうすると、美術館に収納してきた様々なもの、今まで作ってきた膨大な数のチラシの残りやポスター、販売用の絵画類、料理教室で100人以上の人を対象に使う大鍋や道具、招聘する舞踊団から購入した様々な楽器類や仮面、衣装、舞台装置に使われたもの等、収納できれば、倉庫として使用してきた音楽室や2Fの制作室を廊下や窓の回廊を含んで拡大して大きな展示室に生まれ変わることも可能だ。また制作室に階段を取り付ければ、事務室やプライベートなスペースを来館者が通らなくてもすむ。
 資本と時間がなければ実現はなかなか難しく不可能なものだが、膨大なコレクション中の一部を他の出前美術展で公開するだけではなく、大自然の中にある、ここミティラー美術館でしっかりと見せていける。(今までは展示スペースが少なく、しかも大型のテラコッタや巨大な絵画など、所狭ましと置かれていた。倉庫美術館とも呼んでいたが、一つ一つの作品がそれなりな魅力があるので、面白い空間でもあった。)
 このようなことを考えるようになってきた。与えられたこの4ヶ月は、これからの美術館再生には手作りではあるけれども、大きな見えない資産となっている。


第6回

第6回
(2005年12月20日)

 チャルクラ舞踊団が10月29日に帰国したあたりから、復旧のための仕事が徐々に本格化していく。9月9日に来日して、現在も絵やテラコッタの修復や片付け、大工仕事、また壊れたテラコッタの再生に取り組んでいるワルリー族のサダシヴ、ゴルカナ、ビハールの陶工ララ・パンディットら3人の協力を得ながら復旧作業が進んでいく。
 5月頃から、復旧の仕事は、ゆっくりとなり、文化的な活動が開始した。それを象徴しているのは、月見亭で、道や梨の木に面した裏側が、ブルーシートが張られたままだったり、土壁が少し見える状態。風呂場を直すために、土台、水道関係を直した後、いつでも開始できるように杉板の外壁をはっていないからだ。雪は根雪となってきたし、そろそろ直していかなければならないが、さしあたりの程度の修復で、風呂に入れる状態なのでそのままにしてある。
 6月には、インド大使館文化担当官マハジャン氏のお別れパーティを新宿中村屋で、日印協会と共催で開催。6月には彼の出身州からきたヒマーチャル・プラデーシュ舞踊団、7月後半から8月にかけてシャシャダル・アチャヤルが率いるセライケラ仮面舞踊団、9月12日から10月29日までチャルクラ舞踊団を受け入れてきた。これらのグループは、愛知万博にインド文化庁より派遣された後、大使館からのリクエストに応えて学校ワークショップを含む全国公演を実現した。
 ヒマーチャル・プラデーシュ舞踊団のときは、宿泊施設の復旧がまだ間に合わないので、津南の年金保養施設グリーンピア津南のもつログハウスに滞在してもらった。その後、宿泊の場として使用している施設(ワルリーハウスと呼んでいる所)や元教員住宅の水関係を直し、台所に中古のシンクを入れ、前よりずっと使いやすくなった。
 チャルクラの時は、オープンしたホームセンターに格安のベッドがあったので9個ほど購入して使用。最初はいらないということで、隣村の元赤倉小に置いてもらっていたが、東鷲宮小の子供たちが交流で来るということで、邪魔になるので、ワルリーハウスに設置した。
 8月までは、美術館、元教員住宅などの崩れた土壁を取り除き、石膏ボードをはり、ペンキを塗るなどの仕事。どこかを直すと必ずゴミが出て、処分しなければならなく、何度もマイクロバスの座席にブルーシートをかけて積んで、市のゴミ焼却場やリサイクル施設に運んだ。今までは、もらったものなど、物をできるだけ捨てないで、再利用することに腐心してきたが、(スペースを空かす必要が出てきた為もあって)今はできるだけ捨てられるものを処分しようと、マイクロバスに入れて、町まで行くようになった。
 9月に入ると、病院の仕事を辞めた赤倉の方が復旧の手伝いを9月、10月と、彼が時間の取れるときに(仕事として)手伝ってもらった。文化活動をすると手が回らなくなり、手がつけられず放っておいた所が、彼のおかげで、元教員住宅の外壁や美術館の屋根の壊れた所など、少しずつだが確実に修復されてきた。
 10月のナマステに行くには、マイクロや4tトラックの運転手が必要で、ホームページに出したがボランティアが見つからず、ハローワークの掲示板で募集した。その時にやってきた方に、台所の入り口にある水洗い場を直してもらったり、ナマステの時には2tロングのトラックを運転してもらった。マイクロは私が、今年のイベントや福岡(アジア太平洋フェスティバル)往復もすべて運転した。9月後半には、埼玉近美の中村さんが、NPO芸術資源開発機構の協力を得て、ミティラー美術館支援のために、チャルクラのワークショップと公演、そして彼の持つギャラリーでのミニ展覧会を開催し、多大なご支援をいただいた。個人でも相当負担されたようで、感謝とともにちょっと心が痛みました。
 今年のナマステ・インディア(代々木公園で10月1、2日)は、辻氏や企画会社の大塚氏が協力してくれて、NPO日印交流を盛り上げる会とインド政府観光局が共催し、多くの方々のご支援により、5万人を集めるほど盛り上がった。
 大使館文化担当官のラムー氏は、11月24日に『慈悲の足跡ムインド仏教遺跡と芸術遺産』の写真とマハトマ・ガンジーの写真の寄贈式(インド政府がNPO盛り上げる会に寄贈)のためにミティラー美術館を訪れた時、「ナマステは人は大勢来て成功したけど、お金の方は大赤字で大変ですね」と語ったが、180万ほどの赤字になってしまった。復旧中の中、特に今回は日本商工会議所が共催ではなく、後援になり、毎年赤字だったナマステ・インディアの赤字を、以前も毎年のごとくかなり負担してきたが、今度は全額もたなければならなくなった。計画するにあたって、その負担を負いきれるか、特に大きな会場で、無理ではないかと迷ってもいたが、多くの人たちが協力してくれることになり、とにかくナマステ(http://www.indofestival.com/namaste05_kanpa.html )を継続しようと前に進めた。この程度の赤字でよかったとある意味ではほっとしている。新潟のIT企業の知人から、5万人集まったのに何で赤字なのかと首を傾けられた。このようなインドのイベントに、寄付や広告、スポンサーはまだまだつきにくいのが現状だ。インドが世界経済で大きくクローズアップされ、日本にとっても国家戦略的にも大きな存在になってきたが、文化には支援の流れがこない。来場した人々やテナントとして参加した人たちは、大変喜んでいるのだが。
 戦後、日本に対してインドは好意的であり、いろいろな意味で国として恩を感じてもよいような歴史的な行動をインドは日本に対して取ってきた。先日もインド大使に確認させていただいたが、戦後、どの国が好きかとインド政府が国民に調査した結果、今日まで世界の中でずっと50数年好きな国は日本だったということだ。このような片思いがずーっと続くとは思えない。個人ならまだしも、国と国のことだ、本来お互いに愛し合った方がいいと思える。このことに対してはちょっと悲しい所を感じる。それでも今まで冷たかったマスコミにも変化が起きてきた。というのは、インドから首相が来日しても日本の主要紙が、一面でほとんど大きく扱ったことがなかったが、最近はインドの驚異的な経済成長について各社が取り上げている。
 もっと日本は大きく変わらないとダメになってしまうのではないかと思える。インドの未来の予測はマスコミの力によって、それでも多くの人々に伝わってきている。
 今いる3人の民族芸術家、特にララ・パンディットは、「ここはミュージアムではなくて、テンプル(寺)ミュージアムだ」という。サダシヴもゴルカナも、真剣にそうだと頷く。私が「えっ」と不思議に思って問いただすと、「インドには作品がコレクションされていない。ここみたいに作品を大事に、ずーっと守ってくれるところはない。だからアートテンプルだ」という。
 私は、日本の他の美術館の人がこの話を聞いたらどう思うかなと、想像した。全く異次元の事なのか、理解しがたいことか、それとも来日している彼らの作品がここにあるから彼らが言っているだけと思うのだろうか。そういえば、ミティラー画の描き手のシャンティ・デーヴィーが、こう言ったので驚いたことがあった。子供たちにどこに行きたいかと聞いたら、日本のミティラー美術館に行きたいと答えたという。びっくりした彼女は、今までだったらタージマハール宮殿とか言っていたのに、どうして行きたいのかと聞いたら、「お母さんの作品を見るには日本に行くしかないから。そこにはガンガー・デーヴィーやシーター・デーヴィーさんの作品もたくさんあるし、インドでは見られないから」と答えたそうだ。
 新潟県の災害復興基金に2つ申請している。一つは美術館の復興、もう一つは、この世界的なコレクションを中越大震災の復興の目玉として、美術館の再生と、アートグローバリゼーションともいうべき、日本で発展しているインド民族アートのコレクションを日本全国、そして世界に公開していくこと。この秋に、県の保健衛生センター発行の「すこやか新潟63号」の冊子の表紙に使うとかで取材に来られた職員の方は、このような発想に本気になって理解していた。チャンスというのはルーレットのようかなと思う。が、果たして県の関係者が理解してくれるだろうか。
 今は夜中の2時半、雪下ろしの雷がドカーンと鳴った。美術館の屋根裏には、その前からどうやらテンがガタガタと動いている。口述筆記をしてくれている人の手が冷たくなり、「まだ続けるのですか?」というので、ひとまずこれでこの文を休みます。




 (c) Copyright 1996/2005 Mithila Museum. All rights reserved.