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長谷川むんなの地震レポート


 友達4人と友人Kの家の3階にある9畳ぐらいの部屋で麻雀をやっていた。麻雀にも飽き、やることもないのでなんとなくぶらぶらとゲームや漫画を読んだり、話をしたりして時間を過ごしていた。5時56分の本震の予感は全く無かった。俺は漫画を見ていたが、6時近くになったのでそろそろ帰るかとみんなと話をしていると、突然ガタッガタッと来た。それも結構大きく、震度5、6とか(今まで自分が地震では体験したことの無い大きさ)心の中では、「その一瞬だけで終わるだろう…」が、最後まで思う前に「やっぱ本当にすごい」、「こいつはやべェ!!」とすぐに切り替え、ガタッガタッときた、本当に瞬間的(半ば本能的!?)に近く(すぐ目の横)の本棚を右手で押さえた。本棚は地震の力を借りているおかげで、その勢いは俺の予想を超え半端でない。20センチから30センチくらい大きく揺れ動いていた。電気は最初の揺れが始まったときにプツンと消えた。カーテンが締めてあったため真っ暗な状態になり、周りが見えなくなる。まずはHが「みんな動くな!」と言い、俺が「誰か、携帯のライト…早く!」と。自分でも出そうと試みるが、利き手が塞がれている状態なのでモタモタしていた。最初の本震が終わりに近い時にT君が出し、みんな無事だと分かった。その代わりに、部屋の状況は凄まじかった。テレビは台から落ち、コンポも倒れ、押さえていた本棚からも本は飛び出ている。小さな棚は倒れ、中の物がそこら中に散らばっているし、ライトの傘が斜めっているのが見えた。本震が収まった後、結構すごいから、また来るんじゃないのという話になり、いったん外にでることに。2階に降りようとしたときにKの母が「大丈夫だった?」と。部屋の壁等はその時は崩れてなかった(数日後送られてきたKのメールには壁の修理中と打ってあった)、それに意外と板の階段は大丈夫だった。Kの兄の懐中電灯で2階の居間の状況も分かった。そこは一番ひどく、台所は戸があるため見えなかったが、大型のテレビも落ちているし、CDや装飾品などの落ちる物は全部落ち、また倒れている。2階の玄関の所では灯油のポリが倒れ、自分の靴もその灯油で濡れていた。玄関に居た犬もおどおど怯えていた。階段を下りている時、階段も灯油で濡れているため、滑りやすくなっていた。Sが階段の脇に置いてあったガラス瓶の入っているケースを滑って落としてしまい、また一時パニックのような状態に。Kの家の家族が驚いたみたいだったので、靴を履くのを待っていた自分が「大丈夫ですよ」みたいな感じで。階段の壁を伝いながら下に下りて、外に出た。小路が多いところで上からガラスなどが降ってきたら危険なので、まずは大通り(Kの家からわずか10秒)に出ようということになり、半ば駈けだして行った。最初の地震発生から2分もかからず外に出ていた。近くの住民も皆1回で終わるものだと思っていたのだろう、一時外に避難という感じで小路に続々と出ていた。

 大通りに行くと、普通に車が走っていることと、停電しているということが分かった。周辺の所だけでなく見渡す限りの全ての建物が停電しているから、十日町市の広範囲で停電しているなとすぐ分かった。市役所とシルクモールは自家発電か何かで明かりがついていた。まぁ外に出たから一安心とみんなで話していると、最初の地震よりは小さいが結構大きめの余震が来た。そこで、広い所に避難しようということになった。光がある場所の方が何かといいかなと思ったが、広いってことになるとすぐ目の前の十日町高校(以下十高)のグラウンドが何もないし、落ちてくるものとかもないからそっちの方がいいだろうということになった。そういう話をしている時にも小さな揺れはあったと思う。震度1、2では、外にいるとあまり感じない。俺が「今も揺れてる?」とみんなに聞くと、T君やH君が「揺れてるって!」ホントに揺れてるのか?と思い周りを見ると、道路標識のポールがずーっと動いている訳。小刻みにカタカタカタッと。あ、やっぱ揺れているのだ。それでもふつうに車は通っているし、歩いている高校生が2、3人いたかな、自転車に乗って帰る人も。車や自転車じゃあまり感じねーのか?と思った。でも、流石(さすが)に最初の地震には気づいただろうと思い、早く家に帰ろうとしているのだろうと一人で勝手に解釈。また、大通りは、俺らのような考えの人でたくさんいると思ったが、意外に閑散としている。高校生以外にも歩いている人も中にはいるけど、それでも思った以上に少なかった。

 後ろからKの母や兄や祖父たちも家の外に出てきて、後ろから来るような感じだったから「大丈夫だろう」と思い、グラウンドには5人で先に行った。グランドに行くと誰一人いなかった。「地震スゲーよ」「夢みてー」や、「これじゃ電車も無理だから川口に帰れない」と川口に住むTが、また「これからどうすんだ!?俺ら避難生活!?」みたいな事を話していると、十高の女子テニス部が3、4人やって来た。避難してきたのだろう。でも、ラケット背負っているし…他の所から来たから、たぶん部活の帰りで総合体育館から来たのではないだろうか、と元テニス部の俺は考えた。部員の一人に「大丈夫だった?」と聞くと、大丈夫と言った。聞いたところによると、やはり部活帰りで歩いて学校に寄る時に地震に遭ったそうだ。そうこうしている内に人も少しずつだが次第に集まって来た。そんな中で、HとSが自分の家族が心配だと言うことで自分の家に行きたいと言って来た。この二人は方角的には同じ方。Kの家は家族も大丈夫だったというのが分かっていたし、Tの家は行くことが不可能だし、避難するしか無い身なので、だったら、5人全員で向かおうという話になった。でも、「全員で行くと何かと大変だし、何かあったときに困る。これからグラウンドにも人が来るから、グラウンドからの情報のやりとりができるように数人は必要だ。Kは自分の家族がいるから一緒に居た方がいい。女子もいるから、何かあった時のためにやっぱ男子がいた方がいい。俺も大池のことがずっと心配だから送りがてら何とかして帰らねーと・・・」と俺は瞬時にいろいろ考え、KとTの2人を残し、HとS2人と俺の3人で行く事にした。その間、一度大きめの余震が来た。女子は「キャー」とか悲鳴をあげていた。

 グラウンドのネットをくぐり、道に出た。Sは自転車だったので、もたついていた。そして「やっぱいいわ、俺ここにいる」と言ったので「先行くぞ!」と。体勢を低くしながら小走りで本町通りに向かった。道を挟んだグランドの反対側の家は、見た限りほとんどの窓ガラスが散っていて、白線を越え車道の所まできていた。これは危険だなと思ってなるべく真ん中を通って行った。この時には学校の近くに住む人が出ていた。2階の方が屋根のように飛び出ている所がある医院の外の下に避難しているお年寄りがいた。上からガラスや、無いとは思うが鉄筋が落ちてきたら危険だと思い、「十高のグラウンドに避難した方が安全ですよ。たぶん避難所にもなるだろうから。」と声をかけた。他の人達にも自分の判断だったが、十高の方に避難してくださいと、みんなを誘導させた。自分たちが本町通りに入る直前にまた少し大きめの地震が来た。

 本町通りに入り、Hの家の方までアーケードを通り向かった。本町通りも、普通に車が通っていた。アーケード内は電気がうっすらついていた。信号は停電のために消えているので危険だなとHと話した。「こういうのが二次災害につながるんだよな!」「そういや火事がまだ起きてないから良かったよな」と。商店街のガラスが結構割れていた。途中、中学時代の友達とその家族に会った。お互い無事を確認しあった後、十高の方がここよかは安全だからと、避難することを勧めた。その友達のおばあちゃんが聴いていたラジオをHと一緒に少し聴いた。「小千谷市を震源とする強い地震が・・・小千谷震度6強・・・」震源の震度が分かったので、充分だと思い、また小走りでHの家へ向かった。その向かっている間も内心は、松井さんとシルバー(犬)、サダシさんのことが心配だった。無事でいてくれよ…

 Hの家は反対車線のちょっと先にあるので、車を見計らって国道を走って横断した。そして、Hの家の近くの駐車場に彼の家族が避難していることが分かり、彼は走っていた。Hは家族との無事を確認した。その駐車場には彼の近所の方も避難していた。俺は「これで、こっちも大丈夫だろう。さて…これからどうすっかな、大池に行くのも大変だし、ひとまずグラウンドに戻るべきか…それにしてもお袋が心配だ。まずは電話すっきゃねーな」と考え、まず、美術館に電話した。回線がパンクしている所為でつながらなかった。

 何回かトライしている最中に、突然、大きな揺れに見舞われた。すぐさま、H家族と近所の方とみんなで地面にしゃがんだ。この地震は長く、「終わる気あるのか?ってぐらいずっと続いて、新潟崩壊!??」みたいな勢いだった。この時、隣の中学時代の友人Mの鉄筋造りの細長いアパートみたいな家が、倒れてくるのではないかと思うほどの横揺れだった。ともかく揺れは長くなかなか止まらない。でも、駐車場にいる分には無事だった。その地震もようやく収った。それからはホントに大きな地震(震度6並の)は来なかったが、震度3、4ぐらいはちょくちょく来た。その度に、みんなビクッとしていた。

 
 
 先の長い地震が終わった後、アーケード内の電気も完全に消えた。周りを照らしてくれる照明は無くなったが、最初の地震の時から輝いていた月は、宇宙から俺たちの事を心配してくれているかのように、一段と明るく照っていた。地震にも微動だにせず地震の全貌を細部まで見渡すかのように、夜の雲さえ突き抜けて見える、満月よりも明るい月だった。生まれてからこの年まで大池から多くの月を見てきたが、町で見た、この日の月はそれ以上だった。町の電気という電気が消えていた所為か。忙しい高校生活に明け暮れての久しぶりの所為か。はたまた地震という底知れぬ恐怖を体験した後の所為か。これらの所為で、と言うより、おかげによって月は本当に、偉大で優美で壮大だった。月明かりがあることは外に避難している人々に安堵感をももたらした。月の優しいあたたかい光が地震の恐怖を、避難していること忘れさせ、被災した人々の見えない深い傷を癒してくれた。避難している多くの者から「こんな時に月があって良かった」「真っ暗じゃどうしようもなかった」「明るいな」という声を耳にした。
 人々が太陽と入れ代わりで現れる月のことを忙しい日常から忘れたために、地震が月をかわいそうに思って俗にいう天災を起こしたのかもしれない。とその時は思わずにいられなかった。【天災は「月と共に」忘れた頃にやってくる。】とはこのことである。


 自然の恐ろしさの後で見る、自然の月にただただ圧倒された。こんな日に月があってホントに良かったよな、とHと話した。夜になるにつれ、だんだん寒くなる。山育ちの俺は寒さには平気だが、野宿するとなったら結構きついなと思っていた。そんな事を思っていると、Hの家族が、家の中から毛布やちょっとした飲み物、懐中電灯などを駐車場に持ってきて、俺に毛布を貸してくれた。少ししてから美術館に電話してみた。やっとコール音がするようになったが、お袋は出ない。外に避難しているのだろうと思った。Hと俺が最近興味を持っている哲学の話しや、ゲームの話しでもして、なるべくネガティブにならないようにした。話をしながら、ふと、もしかしたらお袋はもう迎えに出ていて町まで来ていたのかもしれないと思い、携帯の方にも電話した。つながったが「電波の届かない所にいるか電源が入っていないため…」となったので、これは町には来てないなと判断した。山に、美術館にいると分かったところで、みんな無事かは分からない。サダシさんはしっかりしている人だから大丈夫だとは思っていた。シルバーもよくよく考えれば動物だから本能的になんとかなるとふんだ。ただ、お袋はパニックになる傾向があるので、たとえサダシさんがついていてくれたとしても、「やばい、これは一刻も早く何とかしないと」と思った。だからといって歩いて行っても大丈夫なものか分からなかった。実際歩いてでも行こうと決断したが、大きめの余震がいつ、また来るか分からない状況(小さい余震は頻繁にくる)なので行こうにも危険でどうしようもなかった。

 とにかく、親父に電話しようとしたけどあいにくつながらない。れいなにも電話すれどつながらない。れいなには十高のグラウンドにいた時にメールをしたが、仕事中なのかその返信は来なかった。友人の事も心配になりメールで「大丈夫か?」とか送ったり、逆にメールが来たりした。その間も何回も親父にかけていた。たまたまつながった時に、状況(自分は無事だと言うこと、美術館とは連絡が取れないこと)を話して、今は友人の近くの駐車場に避難していることを伝えた。その後、Hの家の近くの駐車場で1時間くらいいた。その間にもう一度親父につながった。親父と相談してタクシーで大池に行ってみようということになった。そうこうしている内に、宮下西公園の方に避難してくださいと、全員避難してくださいと消防団員の方の指示があり、周辺の住民じゃないが一緒にH家族と行った。みんなが一つに寄り添って寒さを凌いでいるようだった。公園に避難した時に親父と3回目の連絡ができ、「タクシーに乗れたら、これから大池に行く。」といって、Hの家族にそのことを話すと、やはり、危険だぞと言われた。それでも大池の事が心配なので行かない訳にはいかなかった。すると、Hの父親がタクシー会社のところまで一緒に行ってくれた。そこには1台のタクシーがあったが、それは避難している車で事情を話すと「そんなの無理だよ」と言われた。1台、タクシーが赤倉方面から来たらしいのだが、情報によると土砂崩れで行けなくて、枯木又の方を通って行かななくてはいけないらしい。避難所(宮下西公園)に行ったのは9時か9時半。未だ電気もつかない、水も出ない状態。チーズ、チョコレート、アメをHの家族や近所の方から少しもらった。他にもお菓子などがみんなに配給された。ここで一夜を過ごすには寒すぎると言うことで、十日町小学校(以下十小)の体育館の方へ避難ということになった。みんなでぞろぞろと歩いて行った。老人や疲れきった子供達は車で運んであげていた。十小の玄関のガラスや近くに置いてあった水槽は割れていた。

 タクシーのことで親父に電話したかったけど、なかなかつながらなかった。しかも、携帯のバッテリーも残りわずかになり、無理には使えない。20分おきとか、30分おきとかに電話することにした。避難している人は早くも寝る体勢を作って、また、体育館だから寒いので、みんなで布団やタオルケットみたいのをかぶっていた。電気はつかないから体育館は暗い。ハッキリ言ってやることはない。ラジオを聞くか、寝るか、トイレに行くか、ぐらい。その間も30分おきくらいに親父に電話したがつながらない。少し寝ようとしても、余震(震度2、3とか)が15分おきとか、20おきぐらいにあるのですぐ目覚めてしまう。周りの人もみなビクッとし、起きる。12時過ぎにやっと親父と連絡(4回目、その時にお袋が無事だということも分かった)がついた。話しによると、れいなと一緒にこれから十日町に向かうみたいなことを言われ、後5、6時間くらいかなと思った。この連絡で、お袋が無事と言うことでひとまず安心した。

 起きて待っていようと思っていたが、疲れもあるし、仮眠を取っておかないと、と思い寝入り。再び、余震で目覚め。また寝てを繰り返した。3時過ぎには少しは収まってきたと思う。そこから寝て、親父が来る少し前に目覚めていた。携帯も切ったままだったし、メールチェックもしていなかったのでれいなからのメールにも気づかなかった。少しぼけーっとして、「そろそろくるかもな」とぼーっとしていると、中学時代の女子友達Mが来て、その後ろをパイプをふかしながら一人の男が歩いてきた。そう、我らのミティラー美術館館長、長谷川時夫である。

 Hとその家族に一緒に避難させてもらったお礼を言って、十小の体育館を出た。そしてリベロ(車)に乗り込み、れいなと再会した。大池に向かう山道の途中、アスファルトの道路が地割れして道が崩れている所に行き当たった。看板などの交通止めはされていなかったが、古い木材のようなものが横たわっていた。れいなの「えー!!?車では無理だよ、止めようよ!!」と言う声を尻目に、館長は何の躊躇もなく車を進め、地割れの部分を何とか通過することができた。だんだん菅沼の生誕地道場の駐車場が見えてきた。そこで避難していた人々、地割れの所を通ってくる車が何者かと、不思議そうに見ていた。その一番奥に、同じように見ている松井さんとサダシさんが見えた。その後ろにシルバーも。





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