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第7回 |
10月23日、地震後丸1年、県内では様々な催事が行われた。この日は、主要なイベントがいろいろ組まれているので、市の関係者からも避けた方がいいとアドバイスがあり、公益信託にいがたNPOサポートファンドの支援を得て、地域再生のプロジェクトとして10月15日に十日町市情報館で「インドのITに関するパネルディスカッション」と、インドの文化に触れるということで19日に十日町市民会館でチャルクラ舞踊公演を開催した。(インドのITに興味のある方は、http://www.versajp.com/jp-india50/の IT情報のインドITセミナー「ITにおけるインド政府及びインド産業と日本の交流」 2003年11月28日 東京ビックサイト のページをご覧下さい。)そのパネルディスカッション当日は、前日の十日町市中越大震災復興芸術文化活動支援事業の助成を得た旧川西町(今年合併して十日町市になった)の公演に続き、旧松之山町(同じく合併して現在十日町市)でのチャルクラ舞踊公演の日だった。インドのIT企業の二人のパネラーは、パネルディスカッション終了後東京に戻られたが、「NPO日本語で行う日本-インド間事業を支援する会」代表の石井さんと、国際基督教大学準教授/財務省日印経済委員会の近藤さんは、舞踊を鑑賞したいということで雨の中、会場の松之山体育館にお連れした。ここでの公演は、松之山が震災の被害が少なかったということで旧川西町公演と同じ事業枠で申請した助成事業の対象外となった。会場を確保し、珍しいインドの舞踊が鑑賞できるということで、松之山の関係者に計画の段階で情報がそれなりに伝わっていた。そのような状況の中、松之山公演の助成ができないという決定の情報が遅く伝わった。土壇場になってしまったので、ミティラー美術館のプレゼントという形で開催することにした。もともと十日町市だけでなく周辺市町村での開催をしたかったので、それが実現できることになりよかったと思った。会場でそのことを少し話すと拍手が沸き起こった。参加した石井さんと近藤さんは、「結構人が集まっていますね」と驚いていた。(といっても60名程度でしたが)それは、ITパネルディスカッションも期待ほど人が集まらなかったということ。内容は良いし、少なくともIT関係者や市の関係者、県内からもIT関係者がもっと来てもよさそうなのにと思ったようで(私もそうだが)、「こういうことを何度もやっていかなければだめなんでしょうね。これが地方の現実なんだ。」と彼らは先のパネルディスカッションでそう思ったものだから、チャルクラのような殆どの人が知らない舞踊団の公演に、本当に人が来るのだろうかと思っていたようだ。彼らはこの公演が人数は少ないがセミナーと同様に参加した人たちはそれなりに熱い思いを持ったことを体験し、「こういうことを私たちも何度でも新潟に来てやっていかなければいけないですね。」と語っていた。セミナーでも情報館の職員でマイク等協力した担当者は「先生、とても素晴らしかったです。もったいないですね。学校の先生たちで聞きたい人はたくさんいたでしょうに」と言われた。ポスター等各学校に配布したり市報に出しても難しいのは現実で、市を巻き込んでいくとか、ノウハウがいくつもあることは知っているが、小さな美術館が多岐にわたって行う活動に限りがある。 |
第8回 |
昨年12月10日から降った雪は、12月の雪として大正や昭和から記録されてきた数字を全国各地で超えるという、記録的な雪となった。降雪は1月に入ってもほとんど、止まることもなく続き、1月12日には、大池でも4メートル35センチになった。 |
第9回 |
応接室のストーブの前に座り、災害復興の文章を書くことにした。 |
第10回 |
1月後半に、ナマステで協力してくれた辻さんが、インドから戻って電話をくれた。大型特殊免許と車両系建設(整地運搬積込掘削)の作業免許を取った話をすると、「何屋だかわからなくなりましたね、でも何をしても、食いっぱぐれはないでしょうね」と電話の向こうで笑っていた。町に下りていくと、よく私は下界と冗談に呼ぶが、大型のバックホーやタイヤショベルカー、除雪用の大型ロータリー車などが、忙しそうに作業している。これらをみんな運転することができると思うと不思議な気がする。 |
第11回 |
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災害復興法に十日町市が指定された関係で、2月10日に隣の赤倉部落と大池用にコンマ4のバックホーがやってきた。ここ大池地域の美佐島地区振興会が要望を市に提出し、市が全市を取りまとめ、県が委託した建設業協会が協力してこちらにきたようだ。 |
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第12回 |
3月12日の新聞によると、全村離村した旧山古志村の住民が自宅の復旧作業を開始したそうだ。全658世帯の内、避難指示が続くのは162世帯だが、地域に戻って暮らすのは63世帯。大半が仮設住宅での生活を続ける。 |
7月22日(土)に1年9ヶ月ぶりにミティラー美術館は復興開館することができた。実質は仮復興開館ともいうべき現状だが、訪れる人も次第に増えてきて、地震のことも知らなかったり、すっかり忘れてしまっている人たちも多くなり、訪れて来る人たちの対応に困窮することがしばしば起き、やむなく開館というのが本音。前日の内覧会には、高円宮妃殿下がお忙しい中日帰りで来てくださり、湯沢駅から帰られるときにも電車が発車する寸前まで見送りに来た市の助役を前にして、美術館の今後のあり方についてご意見を厚く述べられていた。故高円宮様も東京での開催の展覧会始め、13年前雪の森にある美術館を妃殿下とともに訪れてくださり、一泊して早朝早く帰られるなど、美術館に特別なご関心とご配慮をいただいていた。21日の内覧会は200名程の方々が全国から集い、開館を祝ってくれた。一番遠くから来られた鹿児島大学総合研究博物館の館長は、「こんなに被害が大きかったとは想像できなかった。」と会場に展示していた災害と復興への写真、美術館の駐車場の片隅に置かれている大型のテラコッタの累々とした姿や、未だに崩れそうな体育館の展示パネルの上部の内壁を見て、言われた。まだまだ復興には時間が、体育館の正面に飾ってあるガンガー・デーヴィーがミティラー美術館のオープニングの時に描いてくれた大作(クリシュナとラーダー)の壁面の一部が前の方に突出した状態もそのまま。使用している6軒の家の中で大池の本村にある男性宿舎と呼んでいる、倉庫として使用している建物は、その後ナガランド州からやってきたアオ・ナガ族の若者たちが手伝って、崩れた床や地震とその後の豪雪で傷んだ建物を一部屋根を含んで7分の1を解体。現在は雪が降る前に家回りの四方に、空いている所のそと壁をトタンで貼る作業が急がれる。 |