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地震災害◆
by館長


第7回

第7回
(2006年1月17日)

 10月23日、地震後丸1年、県内では様々な催事が行われた。この日は、主要なイベントがいろいろ組まれているので、市の関係者からも避けた方がいいとアドバイスがあり、公益信託にいがたNPOサポートファンドの支援を得て、地域再生のプロジェクトとして10月15日に十日町市情報館で「インドのITに関するパネルディスカッション」と、インドの文化に触れるということで19日に十日町市民会館でチャルクラ舞踊公演を開催した。(インドのITに興味のある方は、http://www.versajp.com/jp-india50/の IT情報のインドITセミナー「ITにおけるインド政府及びインド産業と日本の交流」 2003年11月28日 東京ビックサイト のページをご覧下さい。)そのパネルディスカッション当日は、前日の十日町市中越大震災復興芸術文化活動支援事業の助成を得た旧川西町(今年合併して十日町市になった)の公演に続き、旧松之山町(同じく合併して現在十日町市)でのチャルクラ舞踊公演の日だった。インドのIT企業の二人のパネラーは、パネルディスカッション終了後東京に戻られたが、「NPO日本語で行う日本-インド間事業を支援する会」代表の石井さんと、国際基督教大学準教授/財務省日印経済委員会の近藤さんは、舞踊を鑑賞したいということで雨の中、会場の松之山体育館にお連れした。ここでの公演は、松之山が震災の被害が少なかったということで旧川西町公演と同じ事業枠で申請した助成事業の対象外となった。会場を確保し、珍しいインドの舞踊が鑑賞できるということで、松之山の関係者に計画の段階で情報がそれなりに伝わっていた。そのような状況の中、松之山公演の助成ができないという決定の情報が遅く伝わった。土壇場になってしまったので、ミティラー美術館のプレゼントという形で開催することにした。もともと十日町市だけでなく周辺市町村での開催をしたかったので、それが実現できることになりよかったと思った。会場でそのことを少し話すと拍手が沸き起こった。参加した石井さんと近藤さんは、「結構人が集まっていますね」と驚いていた。(といっても60名程度でしたが)それは、ITパネルディスカッションも期待ほど人が集まらなかったということ。内容は良いし、少なくともIT関係者や市の関係者、県内からもIT関係者がもっと来てもよさそうなのにと思ったようで(私もそうだが)、「こういうことを何度もやっていかなければだめなんでしょうね。これが地方の現実なんだ。」と彼らは先のパネルディスカッションでそう思ったものだから、チャルクラのような殆どの人が知らない舞踊団の公演に、本当に人が来るのだろうかと思っていたようだ。彼らはこの公演が人数は少ないがセミナーと同様に参加した人たちはそれなりに熱い思いを持ったことを体験し、「こういうことを私たちも何度でも新潟に来てやっていかなければいけないですね。」と語っていた。セミナーでも情報館の職員でマイク等協力した担当者は「先生、とても素晴らしかったです。もったいないですね。学校の先生たちで聞きたい人はたくさんいたでしょうに」と言われた。ポスター等各学校に配布したり市報に出しても難しいのは現実で、市を巻き込んでいくとか、ノウハウがいくつもあることは知っているが、小さな美術館が多岐にわたって行う活動に限りがある。
 いつもいろいろと支援していただいている、さいたま市の延命寺住職、河野亮仙氏が、「姫野翠さんの追悼を兼ねた催しに来て、復興のためのカンパを呼びかけたらどうですか」と言われ、ミティラー美術館にもいろいろと協力してくれた姫野女史のことなので、何とか時間の都合をつけて出席することができた。河野さんは、一億とか数億がかかる復興を自分たちでどんどん直している、皆さんご協力をと呼びかけてくれた。その話しを聞いて、お寺を再興するということは結構かかるんだろうなと思った。まさにその通りで、壊れた家をそのまま直すだけでは意味がなく、どうせ手を入れるのなら次に向けた方向でないと、と思っている。予算と時間の問題だが、大工仕事をかなりこなせるようになったので、時間をかければできるが、資材もそれなりにかかり、文化活動を停止すれば存続の危機にもなる。資金をどこかで手に入れていかなければならない。
 今考えている一つに、復興への資金ということで、美術館が持っている貴重なコレクションの一部を手放していこうと思っている。例えば、愛知万博のインドパビリオンの展示物やその館長を務めたインド貿易振興局のサイガル氏からいただいていた、200キロ近い、いかにもインドのものと感じられる金庫。インド5大民族アーティストとして知られるインパールの女性陶工ニルマニ・デーヴィー女史の灰皿や壷の作品、同じくガンガー・デーヴィー女史の小さな作品など。復興を考える時、美術館の裏の崖崩れまでを復旧しようとすると、とてつもない資金が要る。現在はそこに積もった雪や道路除雪のために集められた堅い雪をせっせと崖下にユンボ(油圧ショベル)を使って落とし、雪が融けた水が地面に入るのを少なくする作業を日々行っている。
 美術館を本格的に直していくためには、常設している作品を一時的にも収納する収蔵庫が必要。また納屋を借りて収蔵庫としているところは、もう満杯状態。今後の活動にはトラックヤードがある収蔵庫が必要で、地震以来、かなり傾いてしまった「七郎さんの家」と呼んでいる家を直し始めることに。その家は、既に倉庫として使っていた。美術館に行く道に面したところの一階には、美術館の音楽室にあった絵画を地震の後、一時的に長岡の県立近代美術館で数ヶ月預かってくれた後、収納してある。その二階には、88インド祭の時に日本委員会の事務局がインドから購入した等身大のハリボテの象を入れてある。奥の床が取り払われている広い一階部分には、日印国交樹立50周年記念事業のメインとして開催した上野メラー(2002年)の時に使った組み立て式のステージ、その後、築地本願寺のナマステ・インディアや今回の代々木公園でのナマステの第2ステージに使用した材料他さまざまなものが置かれている。二階部分には、段ボールに入る多数のテラコッタが収納されている。地震でその家はかなり傾いたが、テラコッタはほぼ無事だった。七郎さんの家は十日町のハローワークで募集した時に来てくれ、ナマステにも参加した古澤さんが、僅かな謝礼にもかかわらず、友人にも声をかけ、その息子さんを含む3人で、家の傾きを直したり、床の土台や床柱を広範囲に取り替えたりしてくれた。
 七郎さんの家を直している間、我々は、春以来断念していた水源探しを開始することにした。そこに、ワルリー族の2人が参加。彼らは、自分のペース、体内時計をもっていて、何をやってもらってもゆったりとしている。我々のように、少しでも早くしようということはない。それが困難な仕事を継続していく力となっている。山に登って、水源を探すために2メートルごとホースを掘り出し、そのホースの方向にあわせて先を掘っていくのだが、年月が相当経っていて、分かっている人はもう亡くなってしまっており、元村の住民の方に聞いても分からない。(※水道日誌参照 http://www.mithila-museum.com/saigai/waterworks.html
 春に断念したのは、ホースが地震で崩れてしまった土砂の下に向かってしまったから。そこは人力ではとても掘れなく、そこを避けつつ先を掘るには広範囲にわたって試し掘りをしなければいけない。この根気の要る仕事を彼らは、淡々と毎日挑戦し、とうとう水道管を発見。更にその先へ進んでいった。こちらの手があまると我々も参加。そのうちとうとう彼らも音をあげて、見にきてほしいと言うので、山に上がっていくと人が5人入るくらいの穴がいくつか開けられていた。ホースは土砂の1.8メートル下。その管をさらに先に進むのは不可能に思えた。小さなユンボをレンタルして、山の頂上の方から下りられないか調べてみたが、急斜面があって不可能。私は、すでに亡くなられている、池の端に住んでいた次郎新さんに水源に連れて行ってもらった時の記憶を思い起こしながら、沢のどん詰まりの左側の横穴だという場所を特定してみた。ただ、これだけの土砂が長い年月積もり、ホースを埋めていることを考えると、地形的にここだと思える場所はすでに崩れて、今あるどん詰まりから3メートルくらい下の方ではないかと、その可能性について彼らに語った。その後、彼らは特定した場所を掘り始めたがどこまで掘っても、水の気配がないということで、最初に予想した、そこから3メートルほど下がった場所を今度は掘り始めた。そして、そこから水が出てくることを発見。水があったとうれしそうにみんなに報告した。
 そこで、我々も上がり、今度はララさんも参加して、全員でその場所を掘り始めた。その頃には雪が再び降り始め、2日位で断念しなければならなくなった。雪が止むと山にみんなで登った。登るのも大変になる。前の人の足跡から外れると長靴が抜けなくなる。カンジキを履けばいいのだが、取れると面倒なので、長靴に雪が入らないようにカバーをつけただけ。小さな沢を越える時は蔦や枝につかまりながら登る。登り切った所から見る大池は格別に美しい。春に、水道管を探して掘った穴も雪に埋まっている。尾根伝いの急傾斜は雪を固めてかえって少しは歩きやすくなる。このあたりは雪の降りが弱くなるといい声のする鳥が近くに来たり、鳴いたりする。普段は誰も人が入らないところで、とてもきれいな雪景色だ。現地に着くと、まず雪をどかしてから掘り始める。土の岩盤から湧いてくる水を利用して傾斜地なので掘った土を泥にしながら流していく。そんな作業が数日続く。すでに1メートル近い雪が積もっている。彼らが掘った大きな穴は、雪のシャーベットのようになり、小さな小池がいくつもあるようだった。そのうち、雪がどんどん積もり、道具も置きっぱなしのまま春まで断念することになってしまった。
 七郎さんの家は、やっとまっ直ぐになり、中をかすがいや筋交いでいたるところを補強し、床の土台、床柱も入り、床板も張られた。その頃には、雪が2メートル以上にもなり、外に出したタイヤやいろんなものが雪下となってしまった。例年だと12月は、雪が小休止し太陽が出ればかなり融けるはずなのだが、今年の雪はどうも違うようだ。この頃雪の降り方の異常に気がついていく。そこでユンボを出して、雪をどけながら、外に置いてシートをかけてあった様々な物を掘り出し、軽トラックをレンタルして男性宿舎と呼んでいる、大池の本村にある家に、すでに置いてあるものを整理しては運び入れた。地震で緩んだ家の床があっちこっち抜け落ちた。他に、美術館にも運び入れた。雪降る中、全員総出の作業は2日続いた。それでも3分の1は、救出できないまま雪下となってしまった。雪はその後も止まることなく降ってきて、とうとう七郎さんの家の雪掘りをすることになってしまった。今、その家は屋根を越えた雪に埋まっている。当初の予定は、古澤さんたちが家の傾きを直し、床を張った後、内壁や、外壁の一部を張らなければならなかったが、それも断念。美術館と6軒の家の雪掘りに追われることになった。
 少し前の話になってしまうが、1999年にたばこと塩の博物館で、鶴ヶ島市のもつ、故今泉氏が寄贈したパプアニューギニアのコレクションと塩沢町立(現南魚沼市立)今泉博物館のコレクションを、ミティラー美術館が協力して公開した折に、地元十日町でもと、第一回大地の芸術祭の参加イベントとして田倉というエスカレーターがあるミニデパートの3階のメイン会場のほか、2丁目商店街の協力も得て、ストリートミュージアムということで36店舗にわたって今泉博物館のコレクションを展示公開した。メイン会場では当館が招聘したパプアニューギニア、セピック川中上流域に住むクオマ族の彫刻家二人が公開制作を行った。この田倉さんが、地震の直前に中心商店街の不振という時代の波を受け、廃業となってしまった。3階の会場設営に使用したうちのパネルは、その後そのままにしてギャラリーとして活用されてきたが、不要となってしまったので昨年の春に回収した。
 それらのパネルと他のパネルも活用して館内に設置し、仮設会場をしつらえ、インド大使館から寄贈された「仏陀の写真」と「ガンジーの写真」を展示し、公開した。(11月19日から1月15日 http://www.mithila-museum.com/bukyoten05/exhi_0511.html)地震以来、やっと一般の人に、美術館に訪れてもらえる催しができた。周辺には壊れたテラコッタや修復されていない壁もまだあるが、公開してミティラー美術館の現状を知ってもらう機会ともなった。しかし、12月10日から降り始めた雪は止まることもなく、十日町のみならず全国規模でも、12月における歴史的な豪雪となってしまった。そして1月に入っても雪は止まることもなく、ここ大池では4メートルを超えていく。1月6日には、国の災害救助法が十日町市、津南町、妙高市、湯沢町、南魚沼市の5市町に適用され、8日には上越市、魚沼市にも適用され7市町になった。豪雪を理由とする救助法の適用は昭和61年(1986年)以来。県が自衛隊の出動を要請して、津南町と十日町市に出動し、除雪にあたるなど大変な冬となった。中越地域には仮設住宅に暮らす人々や条件が合わなく仮設に入れない人々、当館のように復興への道のりの途上という人々が大勢いる。雪は一時的にくる地震災害とは違い、遅い、ゆっくりとした時間をかけてひたひたと押し寄せてくる。徐々に町や山々を埋め尽くす。開催した写真展に新潟から向かおうとした新潟インド文化交流会のメンバーから、新潟駅に着いたら北越急行が運休ということで断念しましたというメールが届いた。
 雪掘りのため美術館活動が休止状態となった。私は大池地区の部落長、嘱託員という役もあり、地区をこのような時は見守っていかなければならない。大池の本村へ向かう市道は12月の後半には前の年の大雪と同じように、除雪ができなくなり圧雪道となった。市に陳情して、ブルドーザーを1台大池に置いてもらった。頼りにしているユンボは2度キャタピラが外れた。1回目は暗い中、後方から照らす車の明かりを頼りに(ユンボはライトの所が腐っていて無灯)道に落とした倉庫の屋根雪をどかした後、仕事を終えて駐車するためにワルリーハウスの近くで、無理して道から上がろうとした時。(道路の両脇はすでに3メートル近い雪の壁になっていて、除雪の邪魔にならないところに駐車しておかなければならない。また、下ろす屋根雪は場所によってはどうしても道路に落とさざるをえないわけだが、基本的には道路に出してはいけないので、その雪をどかさなければならないのだ。)2度目は倉庫のはす向かいにある故次郎新さんの息子さんが雪掘りに来た時、その家の前で。雪の捨て場のない家でなんとかヘルプしようと、道路から家の玄関までのユンボがぎりぎりに通れる所(両側に木立がある)を上って作業したところ、ユンボの左キャタピラの後ろに杉の木があたってしまい、邪魔して下りられなくなった。脱出を何度も試みたが家や木に囲まれ、1回転することもできない困難な状況で、無理した結果キャタピラが外れてしまった。その下は圧雪道でブルドーザーが毎朝圧雪してくれる所。上がる時、雪を集めて道から傾斜をつけて上がったので、その道の雪をどかされると下りることもできなくなり、キャタピラを直すことが不可能になる。そこで、ワルリーハウスから電気ドラムを2つ使って明かりを点け、夜中の1時半までかかってキャタピラをはめた。2回ともまずは専門の業者に電話してみたが、雪に追われ、とても来られない状態だった。長岡の業者も同様で、重機の部品を卸している十日町の自動車の会社を2社紹介してくれたが、とても行っていられないとのこと。今までも何度かキャタピラが外れた時、直してもらう度によく観察していたので、自力でやってみることにした。理屈を考え、体験を積み重ねながら、道具もなんとか揃え試みた。1回目は道の反対側にある杉の木に登り、ワイヤーをつけ、チェーンブロックを使い、何とか成功。2回目の時は午後2時から始め、夕食も食べず協力してくれているインドの民族芸術家たちと努力した。
 最初に次郎新さんの息子さんが切っていいと言った右側にある上が中程から折れていた20センチ程の杉の木をバケットを使ってなんとかなぎ倒した。その先にも何本か太い杉の木があるが、なんとかユンボの体を後ろ向きにでき、木に登りワイヤーをつけてキャタピラをチェーンブロックや締め機で引っ張り、何度も位置を変え、キャタピラが正常に近くなるように試みた。それでもなかなかかけられなく、断念する寸前で、下の方にキャタピラが外れたまま(完全に外れると重量がありすぎて直せなくなるので締め機で外れないよう固定した)何とかバケットを使いながら片方の車輪のまま坂を脱出して、道の所の安定した位置に車体を移動できた。もう全員の体力、気力の限界だったので、思い切って腕のバケットを駆使し、車輪が壊れたかと思うほどの音を立てキャタピラを色々とこじると、偶然と言っていいのか、正常な状態に戻すことができた。後はうまくはめるだけだ。2本の2メートル近い金てこ(鉄の棒)、その1本を持ってキャタピラをこじ上げているのはサダシさん(彼は1昨年の地震で被災した後、30日間ほど復旧に協力して帰っていった。今回は、2階で眠れないなどその時の精神的なショックもあったので、当初招待していなかったが、復興の手伝いをしたいとゴルカナさんと来てくれた)、もう1本はMn、私は大きなバール、運転席に乗って指示通り操縦するゴルカナさん、必要な照明を当てるララさん。全体のバランスをみながらMnが徐々にキャタピラをこじ上げ、車輪に寄せ、車輪とキャタピラの僅かの隙間に金てこを入れ、私がゴルカナさんに指示するとキャタピラがゆっくり回る。サダシさんも理屈が分かり、自分で判断して次の所に金てこを入れてキャタピラを持ち上げる。何度か繰り返し、パーンという音とともに、5人の力で何とか奇跡的に入れることができた。大きな歓声が上がった。その後インドの人は先に帰ってもらい、道に出した雪を片づけ、照明を片づけた頃、Mnが「やっぱ、家に着いたら2時だね」、私が「えっ、いつの2時?」と答えた。夜中の2時になっているとは考えもつかなかった。1月2日の出来事。


第8回

第8回
(2006年1月26日)

 昨年12月10日から降った雪は、12月の雪として大正や昭和から記録されてきた数字を全国各地で超えるという、記録的な雪となった。降雪は1月に入ってもほとんど、止まることもなく続き、1月12日には、大池でも4メートル35センチになった。
その雪もその夜には止まり、13夜月が現れた。月は青い夜空に昇るとともに輝きを増し、純白の柔らかな雪を青くしていく。音のない、抜け出たような青い森に、眩しい月がいきている世界になった。この年の、この夜しか出ない月、と言ったらいいだろうか。
 一冬に一度だけ青い空が、限りなく青くなっていくことがある(参考:拙著「宇宙の森へようこそ」地湧社刊)。降り続く雪の力と、春に近くなる太陽の強さとのせめぎあいで、雪の白さが白いほど光を反射し、雲を溶かしていく現象だと言われている。雪が降り続くということは、空が澄み、雪の白さも限りないものとなる。その日の月は似たようなことかもしれない。

 青い森は、恐ろしいほどの美しさになった。
 月影は深く、際だち、森を立体たらしめる。
 息をのむ無音の世界に、月のみが空に動く。
 雪というのは、降れば降るほど、
 降り続けば降り続くほど、
 その恐ろしいほどの力を増し、
 人の世界を超え、すべてを新たなものへ。
 人や生き物を超えれば超えるほど、
 雪は美しく生き物たちを詩人にさせる。

 よく、ここを訪れた人が、「春はきれいでしょう」とか「秋の紅葉は美しいでしょう」「いつが一番大池はきれいですか」と聞いてくことがある。そんな時、私は、雪のときが、特に1月末から2月10日くらいまでの間、雪がどんどん降り、大池が雪の雪原になり、ヒマラヤのベースキャンプに家を構えているような時が一番いいと答える。太陽がつくる青い空や、月がつくる青い森も、雪がなければ生まれない。何日も、1ヶ月近く限りなく降り続いて、初めてその美しさが現れてくるからだ。
 25年前(56豪雪)の雪も、そのような力をもっていた。
 当時、私がここへ来て初めて体験した大雪の年。雪は6メートルを越え、降り続いていた。大池の森は、除雪ではなく圧雪の時代。隣村の菅沼に唯一あったブルドーザーが朝の4時頃、未明のうちに圧雪に来る。そのブルドーザーも、次から次に降る雪に、とうとう動かなくなり、他のブルドーザーを頼み引き出さなければならなくなった。そのような時、今の月見亭から、2階を越えた圧雪道に玄関からかけ上がり外に出ると、道の雪は胸まであり、泳ぐようにして進むのと同じような雪の量が木々や屋根を埋めている。歩くこともままならない雪の世界。木に積もった柔らかな大量の雪が落ちると、柔らかなその雪が、音もなくゆっくりと道にくずれ落ちていく。落ちた雪は、柔らかな道の雪と共にゆっくりと噴煙をあげはね返る。泳ぎながら歩く自分も、すべてはスローモーションの世界。恐ろしいほどの美しさが己を埋め尽くす。それでも泳ぐように歩いた記憶がある。
 当時、村には、池のそばの池の端に私を入れて4軒と教員住宅に先生が、本村に7軒。大池小学校の生徒は甚吾さんの娘さんが一人。本村(ほんむら)の大上さんの納屋には牛が2頭飼われていた。冬場の仕事として子牛を買い育てるのはこの地区の生業の一つ。茅屋根の玄関を入ると、牛が飼われている、そのような家の造りが普通だった。その年の雪のピーク時に、表層雪崩が裏山から音もなく納屋に達し、まるで水が入ってきたように、柔らかな雪は牛を埋め、2階にまで達し、そこにいたおばさんを飛ばした。
その災害が起きた時、江道、猿倉、津池、菅沼、大池の消防団が招集され、その救助と大池小学校の雪掘りを行った。その時私も大池小学校の雪掘りに参加。炊き出しのおにぎりが用意された。
 各部落から歩いて大池地区に上ってきた人たちが、学校の屋根を掘り始めた。屋根には、大人がスコップをもってジャンプしても届かないほどの雪があり、雪掘りは3段掘りとなった。屋根の下の方の雪は、スコップで割るようにして掘らなければ太刀打ちできない。2段目はスノーダンプ。3段目の柔らかい雪は、スノーダンプで下ろすが、崩れて散らばり非常に難しい。20人以上の人たちが屋根に上り、滑り台のような長さ1間半のトヨをいくつも使って、2〜3列から1カ所に合流するように雪道を作り、屋根の下には長い梯子や短い梯子を立てた上にトヨを設置して、低いところへ掘った雪を流す。大勢でそこに流すから、下の方に2、3人いて、特に年配の人たちはその担当となって、流れてくる雪がつかえないようにスコップをもって、落ちるところに立って雪を散らす。2人は雪が山になってつかえると梯子やトヨを動かし、雪の少ない所へ設置していく。もう一人は、トヨの途中で雪が止まったときなど、その所に行き、スコップで流してやるといった具合に。
 屋根の雪を全て下ろした後がまた大変で、ブルドーザーも1台来るが、とても間に合わない。体育館の屋根近くの天窓のガラス窓は、高さ1メートルくらいで、スコップを持って入り、掘りあげる。体育館と2階建ての校舎を結ぶ1階建ての廊下や、全ての窓を掘らなければいけない。屋根まである学校の雪、1階の部屋の窓に付いている庇も出さなければいけない。最後は一人が1階の窓の庇近くまで潜り、そのままスコップで屋根まで飛ばせないので、中間にもう一人入るスペースを作り、2人から3人がかりで掘りあげる。特に給食担当兼用務の人がいる部屋は、明かり取りのために窓を掘らなければいけなかった。
 その年の学校は7、8回掘っただろうか。村に入った雪崩が村の人々の頑張ってきた心を押し流し、4軒が、特にずーっと区長や地域の代表的な役割を担った家々が離村することになり、大池小学校は翌年廃校となった。
 今は、ミティラー美術館となっているこの施設を、ユンボを使いながらアームが届くところまで、雪を屋根から下ろし、下ろした雪をさらに遠いところへ、飛ばす場所もユンボの腕で掻くようにして崩し、雪を固め低くする。
1階の庇箇所はユンボの手である程度深く掘って人が入り、建物側の壁の雪を落とし、さらにユンボでその雪を除き、掘っていくというようなことで、屋根にのるのは4、5人程度でも何とか可能になっている。掘り手がいないときは、この美術館の屋根を男性2人とユンボだけで掘らなければならないときも多々ある。
 十日町の地元紙が、「今年の雪は、この「56豪雪」と言われている記録的な大雪をを超えるのが確実」と言い、「十日町市にとって、記録史上最大だった昭和20年の豪雪を超えるのではと、書き始めた。


第9回

第9回
(2006年2月5日)

 応接室のストーブの前に座り、災害復興の文章を書くことにした。
 住居として今は使っていない美術館で「お酒はあるのか」と言うと、「雪掘りの後、月見亭から持ってきてみんなで飲んだ残りがある」と言う。「麦焼酎だか知らないけど、その時の残っている焼酎がありますよ。それしかここにはありません」「白波という焼酎です 」「いや、それはうまいんだ」「お茶は」「彼らが飲んでいなければ、紅茶のティーバッグ、日本茶はティーバッグ」「ならコーヒーは?」「コーヒーはありません」「紅茶があれば一番、二番はコーヒー」「三番は緑茶、ティーバッグのお茶はおいしくないからね」。まず先に、もってきてもらった白波を飲みながら、後から来た紅茶をつまみに喉に入れる。
 ストーブの位置が今までとは違って、応接の半分よりも廊下側に置かれている。私は、最初にこのストーブと、かつてジャンガル・シンの「飛行機」があった壁の方に置かれた椅子に座ったが、あまりに熱いので廊下側に、机の下にあった椅子を引き出して適度な距離をもって座った。
 そのストーブは、燃料をくい、灯油が毎月のごとくに値上がりする中での問題児だが、この雪山で頼れる存在、ここにいる者はみんなこのストーブの周りに寄ってくる。40畳とか80畳の部屋用のストーブで、金額にして10万を超えるようなものだという。
 どこかの自治体が、地震の後十日町市に寄贈したものだ。市役所の女性職員が、当時、困っていた私の問い合わせに「ちょっと待ってください」と言って、しばらくしてから「広いところで使えるストーブがあります」「体育館で作業するときには、それがあれば助かります。もし、もらえるなら」「はい、大丈夫です」。
 そんな会話の後いただいたもので、あの時、その職員がそのことを思い出してくれなければ、ここにはなかったもの。そのストーブは、雪の中、台所の土台や壁、柱をなおしている時に私たちを助けてくれた。次の朝、壁の代わりにシートを張ってあったが、雪がなだれ込み、ストーブの頭が真っ白になることもあった。
 熱くなるとストーブをローにし、この部屋を見回した。一時復旧されて応接室らしくなった部屋に、いつの間にか今は別世界、メインの机の上にララさんが作った「汽車」が3台連結して置かれている。先頭の機関車は、その車輪が見事で、粘土でなければできない造形、夢を感じさせる優れた作品。本人も、テラコッタで汽車を作ったのは、世界で私だけだと言っている。
 外側の窓際には、貝から顔を出しているガネーシャや魚を頭にのせている女性、つばきをもつ神、それぞれ表情の良い作品がならんでいる。
 本来設置されているストーブは使われていない。それは、この美術館を使い始めた20数年前頃、聖籠町の小学校が廃校となったとき、その学校にあったストーブを後に教育長になったお寺の住職が、くれるように手配してくれ、7台くらいもらい、壊れては取り替えて使い、今でもまだ使っていないストーブが2台も残っている。しかし、古いタイプで燃料を食うことから、新しく来たストーブが使い勝手もよく、暖かいので、今年はほとんど古いストーブは使われていない。
 そのストーブの近くで制作しているララさんの傍には小さなストーブが置かれ、その上には鍋がのっている。その中には、ミティラー画を描くときに使う色に混ぜるガム(樹液)がお湯で溶かしてある。左側には、大きな中華鍋を容器代わりに、ダンボールがちぎられて水の中に入れてある。ララさんがこれから紙粘土を使ったレリーフに挑戦するためのものだ。
 入り口近くには、スノーダンプ、スコップ、脚立が壁に立てかけられている。いつも出動しては、ここに置かれているのだろう。ワルリーの人たちは汽車を乗せた机を引き、壁にそった長いすに座りながら描いている。
 今までララさんの近くにあったが、応接室の中ほどに移動した大型のストーブの上には紐がかけられ、帽子や軍手が干されている。
 私の右側、廊下に面してもう一台の長机がある。MNが修復中の、ニルマニ・デーヴィーのテラコッタが、3分の1を超えてそこの部分が見事に再生されて置かれている。その右側には、同じニルマニの大型のテラコッタが、そこの部分が修復されてのっている。
 私はお酒を飲みながら「汽車」を見て、アートの力を感じた。特に、私の右後にあるニルマニの1メートル近いテラコッタは、この美術館の最高のコレクションの一つ。考えてみれば、地震のときに失った最も大切なものだった。この壷の壊れ方は尋常ではなく、三度の大きな揺れを持つ地震を象徴するかのような、想像を絶する壊れ方だ。物をぶつけて壊れたようなものではなく、土台全体の大地の、すさまじい、複雑な動きを表現していた。
 とてもつなぎ合わせることは不可能と思えたもので、この作品だけはそのまま残しておこうと思い、訪れた学芸員たちにも話してみた。みんな、いいのではないかと了解してくれたが、ある文化人類学者から、いかがなものかと軽い指摘があった。それもそうだな、地震のために創った作品でもないのだから、と思った。しかし、ほかのテラコッタのように、崖の傍に集められ土に返すには、と思っていた作品が、3分の1ではあるが蘇えっていて、これだけでも、その姿を偲ばせるものになっている。
 不思議なもので、この作品がここにあるとないとでは、美術館そのものの価値が変わってくる。その意味で、ストーブに暖まりながら見える光景は、周りにやってくる雪の強さに立ち向かっていくアートの前線基地のように思えた。


第10回

第10回
(2006年2月8日)

 1月後半に、ナマステで協力してくれた辻さんが、インドから戻って電話をくれた。大型特殊免許と車両系建設(整地運搬積込掘削)の作業免許を取った話をすると、「何屋だかわからなくなりましたね、でも何をしても、食いっぱぐれはないでしょうね」と電話の向こうで笑っていた。町に下りていくと、よく私は下界と冗談に呼ぶが、大型のバックホーやタイヤショベルカー、除雪用の大型ロータリー車などが、忙しそうに作業している。これらをみんな運転することができると思うと不思議な気がする。

 1月15日に大池の本村にある男性宿舎の除雪をやっていたとき、その先にある茅屋根の家を息子さんと掘っている村の古老の姿が目にとまった。ユンボから降り、雪で埋め尽くされた家の屋根に立っている古老を見ていた。これでは掘れるわけがないと思って見ていると、古老が手を休め、頭を下げて、まるで埋まった雪屋根を見ているようだった。その姿が印象的だったので、そのまま道に下りていき、股くらいまである圧雪道を歩いて状況を見に行った。古老が私を見つけて「長谷川さん、頼み事があるんだんが」と言われ、「あのそ、おまえさんの家が終わったら、おらとこの家の雪をどかしてくんねかの」と言われた。言われるとは思っていたが、いつ壊れるかもしれないユンボ、壊れると太刀打ちできない状況になるし、時間も4時近くなっていて、5時を過ぎると暗くなる、、、。「えー、まあ、終わったら来ますよ」と答えてみたが、どうしたものかと思いつつも、人力ではとても掘りきれない状況が現場を見てさらに感じられた。その後作業を続け、早めに男性宿舎の雪掘りを終え、屋根にのっていた4人に「終わったら、後からあそこの家に来てくれないか。助けることにした。」と言ってユンボで向かった。

 その家に行くだけでも、道を作って行かないとユンボが埋まってしまうので、細心の注意が必要だ。小さなブルで圧雪しただけだから、キャタピラが広く幅のあるコンマ4のユンボが通るのは大変で、昨年も2度ほどボランティアで協力したが、一度は傾き、家の雪をどかす前に道から脱出するだけでも苦労した。(圧雪道の両壁が高く身動きができなかった。)それでも昨年、家の右側のスペースをどかしたことがあったので、迷わずその家の右側に向かって、雪をどかしながら、上りの坂道を作りながら割と早く上がれ、家の右脇をどかし始めることができた。その頃には、4人がやってきて、初めて茅屋根に挑戦し始めた。

 去年は、とても無理だからと息子さん(今年は東京に行っている次男)から言われたので裏側にまわらなかったが、今年はとても人力で掘れる量とは思えない。5時を過ぎて暗くなった頃、古老が「もう遅いんだんが、暗くなったからどうもありがとう」というようなことを言われたが、まだ片側の屋根だけでも終わっていないので、「どうぞあがってください。私たちは大丈夫ですから。また来るといっても、来るだけでも大変だから」といって作業を続けようとすると、古老は申し訳なく思ったのか、止めさせようとまた何か言い始めていた。それを見ていた息子さんが、なにやら言って古老を思いとどまらせたので、結局全員がしばらく形がつくまで続けた。暗くなったので4人を帰して、「ここにユンボを置いておきます。明日また来るから」「そうかね、悪いね」というような地元の言葉で言われた。

 翌日午前中ユンボと4人で2人に協力して、とうとう掘り終えることができた。後ろの方に桐の木があったので、ゆっくり大回りしながら、ユンボがもぐらないように、傾いてはバックしたり前進したり、道をつけながら少しずつ進んで家の後ろに辿り着き、家の周りの雪をどかし、道をつけ、古老を呼んでどこに屋根があるか聞いて、その近くを古老の指示通りバケットを下の方に落としていく。Mnに屋根から飛び降りてもらって、スコップで屋根の先を出してもらう。そこへインドのワルリー族の2人と陶工のララさんの3人が屋根の雪を投げ込んでいく。あっという間に溜まる雪を、またユンボで掘り、できるだけ遠くに雪を捨てる。その繰り返しを何度も何度もやっているうちに家の屋根の輪郭が現れてくる。古老は、茅屋根をスコップで、我々だったらそのまま残しておくような雪もていねいに、まるでカンナをかけるように、少しずつ、少しずつ落としていく。その動作は見事で、こうやって大事に人が暮らす屋根を営々と掘ってきたのだろうと思った。

 昼頃には終わり、4人が帰る。表側の茅屋根の方はすでに掘られていたが、周りの雪が屋根より1メートル以上も高いので、「あそこを掘ってから帰りますよ。どうぞ、食事にしてください。私は食べなくても平気ですから。いつも食べないんです」と笑わせて、お二人には家の中に引き取ってもらった。そこの場所も深く掘れば数時間もかかる。きりがないので、ある程度雪を下げた後、どうやってあの柔らかい道に下りるか考える。古くて弱いユンボのキャタピラは、無理すると外れやすい。周りには電線がいろいろとあって、アーム(腕)も使いきれない。といっても、人間の年で100歳を越えているようなこの機械が、もう一度家の周りを回って戻るのは、それだけでも時間がかかる。迷ったが、坂の道を作って、後ろ向きで下りていった。やはり柔らかな道は、傾斜した重たい車体をもぐらせていった。電線があって、あまり回転することはできない。無理な動きをするとキャタピラが外れる。坂にもう一度少し戻るように上って、登りの面の雪を、手を使ってキャタピラの下まで、バケットの届くところまで、雪を少しずつどかし、穴を作ってそこに前進して、車体の傾斜を幾分和らげ、もと来た道の方へ右のキャタピラを動かしながら、また少しバックしてユンボの車体を少しでも平らにしていく。このような繰り返しをしながら、何とか道に平行に車体の向きを直し、来た道を少し戻ってから車体を回転させられるように、両脇の雪壁を崩し、ユンボが深く埋まった道をバケットで直してやっと帰路につくことができた。

 その日の晩だろうか、地区の民生委員に電話した。ここの大池では今回は掘ってあげることができたが、今後この雪が続くと、とても私のユンボでは限界がある。災害復興法で自衛隊が一人暮らしの家の雪をどかしているニュースがあったが、何か支援してもらう方法はないのだろうか。そんな話しをすると、自衛隊が掘ったのはほんの一部の家で、それに、基本的に住んでいる家の除雪に対しては雪掘り券を市が出すが、住んでいない家には出ないということ。ここは、昨年の暮れに圧雪にせざるを得ないときに、2軒の一人暮らしの老人世帯が、急に半ば強制的に危険だからということで、それぞれの親族の家に移ってもらったいきさつがある。除雪されていれば古老は毎日朝から晩まで少しずつ雪掘りをしていただろうが、圧雪道となり、途中雪崩の危険箇所がある道を歩いて来ることは大雪が続く中では困難だ。息子さんたちが代わりばんこに車で送って一緒に来たとしても、この冬は古老を乗っけて来ることは避けただろう。この人たちが、会社が終わった後自分の家をそれぞれ掘っていく中、土日に代わりばんこに来たくらいでは、この条件の悪い大きな家は掘ることができない。
 昨年の大雪の時は、息子さんの一人が、一冬そこに孤立してこもり、圧雪道の中も住んで、毎日雪掘りをやっていたから何とか掘れた。それでも2度ほどユンボで協力しなければ不可能だった。今年はさらに降り積もっている記録的な雪だ。「あぶないから出ろと言っておいて、人が住まなくなった家には支援はできない、それはおかしくないですか。雪を掘っていくことができない状況では、家をつぶすことになる。家がつぶれれば、地震の被害を受けた田圃をやっと直しながらやっている農業をやめろというのに等しい」「長谷川さんの言うこともわかるが、こういう見方もある。ここは雪が深いところで、だから落下式とか雪掘りの要らない屋根にしなければ人は住めない。それぞれ自立してもらわなければならない面がある」「それはそうでしょうが、昔からの経済的な村落の生活をしている方が、屋根を直すなんてとても無理だと思います。家に入れば、採れた野菜が所狭しと保存され、自給自足の、お金のいらない生活が基本。この地区で茅屋根は、隣の部落に1軒、大池ではこの方の家が1軒だけ。このような茅屋根を守り続けている人もあるんです。実際、『大地の芸術祭』で、アメリカに住む日本のアーティストがこの家を視察して、作品を置く場所として借りようかと考えた。しかし、中には農機具やいろんなものがそのままあったので、迷惑をかけるのではないかと、他の場所を選ばれた。きっと息子さんたちは、古老がどうしても米を作るとか、そこに住みたいというので、仕方なく協力している。しかし、家が残れば時代は自然を求める方向に向かっているし、こういうところに将来住むことも考えられる。壊してしまってはもったいない。こんな豪雪の時に周りから手伝いもなく、出なくてはならなくなり、圧雪道にされただけでは、みんなここには住まなくなる。無理だとは思いますが、やむなく家を離れ自主避難した古老の事を考えて、家に住んでいないからといって支援できないというのはおかしいと思います。こうしたことは、声を大きく訴えていかなければダメだと思います。私も区長として市の方にいろんな形で話していますけど、あなたからも是非大きく訴えてほしい」というような会話があった。

 その後その方から、十日町市が災害法に指定された関係で、枠が広げられ、大池の2軒の住んでいない家に対しても除雪にかかった費用の負担ができるようになった、と弾んだ声で電話をいただいた。市の関係者からも「民生委員の方からも強く言われ、前から話を聞いていたけど状況がよくわかりました。要望のあったユンボの借用に関しても、今検討しているところです。」との連絡を受けた。行政から機械が提供されれば、いつ壊れるか分からない重機を使わないですむ。しかし、そのユンボを使うには、大型特殊と作業免許がなければ使うことができない。それを使える人は除雪だけで手いっぱいで、正月も休むことなく、やっと除雪がやれる状況。この地域全域がそのような状況だ。この問題を解決するにはこの地区での若手、私が免許を取る道がある。しかし、そのような免許がとれるだろうか。ナマステの赤字カンパを呼びかけても、まだ3分の1も集まっていない。除雪費は増えるのに写真展を開催しても人が訪れず、除雪で追われているのに、取得する時間がとれるだろうか。

 1月15日あたりから、正確には仙人テストを久しぶりに始めた4日目の美しい月がここに現れた後、雪は休息状態になり始め、今がチャンスと思い、お金をかけないように片道1時間半(雪の状況によってはもっとかかる)の長岡の免許センターで直接試験を受けることにした。周辺にある、といっても1箇所だけが大型特殊を教える個人指導の教習所があったので、そこへ通って9時間乗り、3回目の試験で取ることができた。その後、八王子で2日間かけて作業免許を取得した。

 その後男性宿舎に雪掘りに犬(シルバー)とユンボで行くと、向かいの一人住まいのおばさんの家の前で、そのおばさんと一緒に行ってしまった犬のことを思ってか、シルバーが空に向かって遠吠えをしていた。その姿と声が印象的で、たぶんおばさんも早くここに戻りたいのだろうと思った。

 その後月見亭に戻って、市の関係者に電話をした。圧雪、雪庇落としも県道の雪庇を落としたりしている会社が受けてくれれば、新たに契約して進めてくださいと昨年言われていたが、自分の関係する道の雪庇さえもまだやれない状況なので、とてもいつやれるとも言えないと言われていたので昨年は諦めてそのままにしていたが、今は私が自分の所の雪掘りが終われば雪庇落としや圧雪道の道割りなどできると思うと話した。今までは大池は3軒しかないということもあって一番最後の方にまわされ、いつになったら道が割られるのか分からない状況だった。いろいろなやり取りが、状況に応じて市と小さな村落の区長という立場で、電話あるいは直接の話をしてきた。

 2つの大きな印象が私の免許取得や行動を起こさせたといえる。1つは、雪屋根の上で、スコップを杖代わりにして雪山と一体となっているような屋根を見て、首を下げている古老の姿。もう1つは、普段いるはずの友達の犬がいなくて、その家の玄関先で空に向かって遠吠えしているシルバー(犬)の姿だった。


第11回

第11回
(2006年2月16日)

 災害復興法に十日町市が指定された関係で、2月10日に隣の赤倉部落と大池用にコンマ4のバックホーがやってきた。ここ大池地域の美佐島地区振興会が要望を市に提出し、市が全市を取りまとめ、県が委託した建設業協会が協力してこちらにきたようだ。
 キャタピラ(履帯)にゴムが付いていたので、凍った雪に滑って役に立たないので、三角のキャタピラをと要望したが、なかったそうで、結局ゴムが半分擦り切れて取れているようなキャタピラのバックホーが赤倉に届いた。
 赤倉を訪ね試運転すると、作業免許を取ったときの、試験に使ったような調子の良いユンボで、少なくとも私が使っているものとは別世界という感じがした。いったい何時になったら大池に来るのか。本当に3月にならないと無理なものなのか。
 そんなことで赤倉に行ったのだが、想像以上に雪に埋まった赤倉は困難な状況にあった。村のはじめから終わりまで、赤倉も大池も同じくらいの距離といえる。そこに17戸の人々が住んでいる。大池の3戸といっても、ミティラー美術館だけでも学校のほかに6軒の家を使っている。しかし、残り2軒は、2軒だけで納屋や作業小屋はない。他に村から出た方が家を残してあり、農作業や時たま来たときに使用している。それらの家は、蔵等も入れて6戸。つまり、私の関係するほかに8軒で、美術館の6軒を足すと14軒、それに元大池小学校ということになる。赤倉の場合は、それぞれの家に作業小屋や元赤倉小学校やその教員住宅、他に集会場、それに空き家が何軒かある。その密集した枝線のような道を行くと4メートルの雪の壁がものすごく、少し高台に上がって眺めると、道に挟まれた中に家が何軒かあり、70を越えた女性が3ヶ所くらいの家で除雪している。午前中に訪れたからで、働き手はみなどこかに勤めたりしているのだろう。そのようなところに、バックホーで上がるのも大変だが、上っていったとしてもどこに雪を捨てられるだろうか。道の方に落とせば、そこにタイヤショベルカーやブルドーザーで適当なところに運ばなければいけない。そんな話を、大池に赤倉から道の除雪にきてくれている人と話した。
 「どうしようもない状態。お手上げ。」「6メートル降ったときはどうしたんだろう」と聞くと、「あの時は圧雪さ」「あーそうか。道に雪を捨てられたんだ」「今は車社会だからどうしようもない。といって車を使うなとはいえないし」と彼は、両手を上に上げて何ともいえないという顔をしている。
 このように雪が降り始めてくると、除雪する人と屋根の雪を道に落とした人と、いざこざが起きる。除雪は朝の4時くらいから動き始め、道を確保しようとする。これだけ降ると、屋根の雪を道に落とさないことには、雪の捨て場がない家が出てくる。それを道から他のところへ運ぶといっても、暗くなり間に合わなくなることもある。務めている人などは、戻ってから屋根に上がる。ライトをつけて仕事をすると、「夜まで仕事をやって稼ぐの」といちいち言われるのがいやなので、影のごとく上がっておろす場合もあると言う。
 地元の新聞といっても、ここ十日町には6万人くらいの人口のところに3紙もあり、そんなミニ新聞には、よく克雪という言葉がつかわれる。流雪溝の整備によって屋根の雪を一斉に流したり、地下水を汲み上げ、道の中央に埋設したパイプから水を出し雪が凍らないようにしたり、除雪車の性能が高まったことで、今回の豪雪も何とか今の状況ですんでいると述べている。町の密集地では、早い話が、降った雪をどこかへ運ばなければいけない。昭和20年の豪雪では、町の中央通り、家より高く積まれた道から家々の向こうにある信濃川が見えたという。まさに北越雪譜に述べられている世界を想わせる
 こんな状況は、42度以上に温度が上がるニューデリーの町のことを思わせる。一度体験した時は、安ホテルでシャワーを浴び、ぬれたまま、腰にはルンギをつけたまま、天井から下がっているファンを最高にしてベッドに横たわる。乾燥するとまた水を浴びに行く。そうやって夕方まで耐えなければならない。車に乗ったら窓を開けることはできない。外はもっと暑い。冷房の効かない車で、一度市役所を訪れた。そこは、冷房がそこそこ効いていたのか、ファンも回っていて暑さのことをすっかり忘れて外に出た途端、どうしようもなく暑い町に立っている自分があり、早くどこかに行かなければならないと感じたことがある。タクシーが何とかつかまってベジタリアンのレストランに行った。中は冷房が効き異なる空間。町中が冷房を使うので、さらに町が暑くなる。はるか昔には、暑い季節には、行政は北の方に移動して行われた。たしかスリナガルだったと思う。
 町の地元紙は、この豪雪の地も雪を克雪して全国と同じになってきた。市民の絶え間ない努力によってという論調だ。しかし、これは難しい問題である。自然とどうつきあっていくか、雪のある場所が雪のないところと同じようにとか、暑い場所が暑くない場所と同じようにとか、必要以上の大変なエネルギーを使ってまで、その風土自然に逆らうのはどうなんだろう。何か第三の道というようなものが見出せないものだろうか。私自身は現在、圧雪道になった地域の道を、少しでも早くその雪をどかし、自主避難せざるを得なかった一人住まいの年寄りたちが帰れるように努力している。
 家族がそこに住めば、地域にもっと人が住み、隣近所が助け合えれば、足が悪い年寄りでも住むのは可能かもしれない。しかし、娘や婿たちが圧雪道を通って車に乗り、仕事場に行くという生活を選ぶだろうか。除雪にかかる膨大な経費や、雪崩防止の工事に何億というお金が費やされている。そうしたお金を村落の新しい、雪に対応した生活のために使えるなら、雪と共に生きる省エネルギーのライフスタイル、エコなライフを村落では可能だろうと思える。


第12回

第12回
(2006年3月18日)

 3月12日の新聞によると、全村離村した旧山古志村の住民が自宅の復旧作業を開始したそうだ。全658世帯の内、避難指示が続くのは162世帯だが、地域に戻って暮らすのは63世帯。大半が仮設住宅での生活を続ける。
 19年振りの大雪だった昨年の雪解けは5月連休明け、ここ大池では2月28日に本村の道の除雪を完了したが、2世帯の内1世帯だけが今日(3月18日)戻って来た。3メートルの雪に埋まった村は、車が通れても一人暮らしの老人には厳しい。今年の雪は、80年以来の大雪と古老たちがいままでかつて体験したことのない雪と語っている。
 2月28日頃の記録では、1平方メートルあたりの積雪水量は観測史上4番目、3月中には過去最大値を記録するかもしれないといわれている。12月の低温と連続的な降雪によって、地上から50から70センチ部分に非常に固い層があり、融雪の水や雨が抜けにくいため重くなっている。2月で1370ミリ(十日町試験地、2月17日)。重さに換算すると1平方メートル当り1.37トン、今年の重い雪が除雪費を底上げし、落下式の屋根まで雪が付着、屋根を壊すという被害が出た。
 大池でも次郎さんの落下式の屋根の垂木が折れた。12月末から自主避難することになり、人が住まなかったことも原因と考えられるが、雪が屋根から落下しなかったり、その雪が一気に落ち、今年は大勢の被害者を出している。雪はかつてない重さで、松之山資料館の屋根や神社の全壊、諏訪様・天満宮半壊など、落下式の屋根が集中豪雪と氷点下が重なり、雪が落ちず各地で被害を起こしている。
 災害復興法で赤倉と大池に貸しだされたユンボを、2月17日に赤倉より遠回りの道6キロの距離を自走し大池に運んだ。キャタピラにゴムが半分ほどついているために、赤倉の坂でも滑り、菅沼にのぼる坂では滑って一時断念しようかと思ったが、まだなれないユンボをうごかし、雪を道にまき何とか上る。菅沼から大池にくる林の道は日陰で凍りやすく、そこでも滑る。道が狭く、アームを使いづらかったが、何とか脱出、大池に3時間ほどでたどり着く。
 美術館のユンボは、バケットが外に動かなくなり(バケットシリンダーの不具合)使えなくなった。そこで美術館の周りの雪をおろしたままなので、それを崖になげる。美術館の周りを片付け、次郎さんの家の周りも片付け、2月20日から28日までの間、懸案の大池の本村に行く途中の雪庇落とし、道割りをし、本村の道は車が通れるようにする。雪庇は、左側の雪庇になった雪を道に落とし、そこへ上がってさらに高いところの雪を落とす。右側は崖で、横に滑ったら谷底、ゴムがついたキャタピラのユンボでは非常に危険な作業。後ろにバックすると、一気に下まで滑っていくなど、ユンボが数度動いた後の雪は、ゴムをはいているために平らに圧縮され滑りやすくなる。そこで何度も途中、ユンボからおりながら、雪の状態を見て注意を払う。初めての雪庇落しで、しかもこれは市道であり、市の委託を受けた仕事で事故は許されない。道割りをはじめた時、各家に行く電線の支線がたくさんあるところに来た時、赤倉から除雪に来てくれている人がブルドーザで参加してくれ、電線も切ることも無かった。ユンボのミラーや足元のガラスは壊したが、無事道を開通することができた。その晩はシルバーの散歩の時に、一番奥の孫吉さんの家までジム二ーで、車としては初めて入り、周りの高く積み上げられた雪壁を見て、雪の深さを実感した。昼食のときや、夜にだいたい8時以降に作業を終え戻った後、市との連絡や来日するマニプリ舞踊団の大使館での歓迎パーティー、公演等についての指示をする。
 道割りを終えた翌日、成田空港に彼等を迎えに行く。そして3月15日に帰国するまで、マイクロバスの運転手と世話、舞台の監督、解説等を行う。彼等が帰国して3日後の今日も、まだ疲労が抜けない。
 昨日は新潟の先の津川に近いところまで日帰りで行き、美術館と同じ型のユンボが雪の中に捨てられていて、そのシリンダーをとってもいいと、美術館のユンボをくれた人が言われるので、そのユンボを、雪山を歩き,見つけ、下見をして戻ってくる。
今日は十日町市で大地の芸術祭を今年開催するにあたっての内容の発表があり、そこにも出る。
 雪というのは余分なことで、そのことにかかわると時間がなくなり、仕事が忙しくなる。しかし連続的にくる豪雪はすべてのことを忘れさせ、襲ってくる雪に、雪山で安全な平原に出て身を振るわせ雪を落とす兎のように、自然の中に生きていく力を与える。



第13回

第13
(2006年11月13日)

 7月22日(土)に1年9ヶ月ぶりにミティラー美術館は復興開館することができた。実質は仮復興開館ともいうべき現状だが、訪れる人も次第に増えてきて、地震のことも知らなかったり、すっかり忘れてしまっている人たちも多くなり、訪れて来る人たちの対応に困窮することがしばしば起き、やむなく開館というのが本音。前日の内覧会には、高円宮妃殿下がお忙しい中日帰りで来てくださり、湯沢駅から帰られるときにも電車が発車する寸前まで見送りに来た市の助役を前にして、美術館の今後のあり方についてご意見を厚く述べられていた。故高円宮様も東京での開催の展覧会始め、13年前雪の森にある美術館を妃殿下とともに訪れてくださり、一泊して早朝早く帰られるなど、美術館に特別なご関心とご配慮をいただいていた。21日の内覧会は200名程の方々が全国から集い、開館を祝ってくれた。一番遠くから来られた鹿児島大学総合研究博物館の館長は、「こんなに被害が大きかったとは想像できなかった。」と会場に展示していた災害と復興への写真、美術館の駐車場の片隅に置かれている大型のテラコッタの累々とした姿や、未だに崩れそうな体育館の展示パネルの上部の内壁を見て、言われた。まだまだ復興には時間が、体育館の正面に飾ってあるガンガー・デーヴィーがミティラー美術館のオープニングの時に描いてくれた大作(クリシュナとラーダー)の壁面の一部が前の方に突出した状態もそのまま。使用している6軒の家の中で大池の本村にある男性宿舎と呼んでいる、倉庫として使用している建物は、その後ナガランド州からやってきたアオ・ナガ族の若者たちが手伝って、崩れた床や地震とその後の豪雪で傷んだ建物を一部屋根を含んで7分の1を解体。現在は雪が降る前に家回りの四方に、空いている所のそと壁をトタンで貼る作業が急がれる。
 9月に東京・渋谷のたばこと塩の博物館で、中越地震復興記念ミティラー美術館展-インドの民族アート-が同館の共催で開催した。会期中にパネルディスカッション等が開催され、美術館の未来と過去・現在、そして災害復興、その行く末など。その中で、10月1日には新潟県の十日町地域振興局長の大宮氏、新潟県立歴史博物館主任研究員の山本哲也氏、長岡造形大学の平井邦彦氏の方々が参集して下さり、私共々同館の学芸部長半田氏の司会で文化財、文化の施設等を中心に大震災後の復興について、様々な提言や現状報告、対話がなされた。結論的に、大宮氏曰く、「個人美術館の復興支援の枠はない」とのことだ。県知事の代理として来ていただいたのだが、予想通りの結論。県の災害復興基金も生活再建、コミュニティーに関係する分野や農業、商工業等に関しては、復興の進まない現状に次々に支援策を打ち出して来ているが、まだ個々の対応や個人美術館という特殊な領域に手を付けていない。私がそういった現状に対して横浜市の例をあげて提言をさせてもらった。「横浜市では、今までは新潟と同じように行政の支援というのは個人や個の企業といったものには枠がなかったが、つまり平たく全体を振興するという行政の持つ本来的な制約の中で支援活動を行ってきたが、これではいつまでたっても駄目だということで、競争の激しい時代にあって個や全体ということにこだわらず、優秀な・発展してきている活動や企業に対しては支援していこうということになってきた。」ということを例にして、成長するインドとそのインドには見いだすことができない世界的なコレクションと日本でのみ発展しているインドの民族アートとその基地であるミティラー美術館の存在のあり方、その支援策について語らせてもらった。
 地震後3回目の冬になろうとしている。地震直前に知事になった泉田知事はこの冬までに仮設住宅から全員を出られる状態にというスローガンで努力されたが、多くの人が未だに仮設住宅で冬を迎えることになる。ここの大池は2年間本村に通じる道が圧雪道となり、その本村に住む2軒の老人世帯は冬を大池で過ごすことはできなかった。今のままでは今年も同様になる状況。そこで、遠い赤倉から除雪に来てもらうのではなく、ここの大池部落が除雪をするということで、結局、私が今年の除雪と危険な道の山の雪庇を小刻みにリースするバックホーで取り除くということで、ショベルカーもリースで借りて挑戦することになった。12月15日から3月一杯の仕事。しかし、インドの首相が12月13日来日、14日日印両国首相の下で来年の「日印交流年」のオープニングパーティー。その為に派遣されるバラタナティアムの踊り、シャーナイの演奏。それらが10分程度のアトラクションだけで帰るのはもったいないと言うことで、大使館からの要請で東京・大阪・新潟等での公演協力をし始めている。復興、雪、文化活動、これらをどうやって乗り切っていこうかと考えている。
 7月22日の開館のポスターに雪の大池をバックにした犬、シルバーの写真を使った。大地の芸術祭というトリエンナーレの協賛事業の一つとして参加。どちらかというと、現代アートに人の心が動く中、本当の意味では宣伝や作られたイメージの中で判断する人々が多い中、自然とのコミュニケーションを持ち、数次にわたる日本滞在の中で生まれてきた現代のインド民族アートに目を向けてもらうため、自然そのものである誰もが好きなお月様と同じように、野性的なシベリアンハスキーのシルバー君を目玉としたポスターで、並ぶ現代アートのインフォメーションにチャレンジした。あり得ないポスターのあり方に、大旨好意的な意見が多かった。




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