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越生さんの地震レポート


 2、3日前の夜、ネズミが台所の隅で、新聞紙やらビニール袋やらを集めて大騒ぎをしているような音をたてていた。いつもなら声をかけたり、ドンと大きな音を出すと静かになるのに、その時はどんな音にもガサゴソ大騒ぎは途切れず、結構長い時間賑やかだった。それがピタッと収まったら、その後は何事もなかったように静かになった。
 10月23日早朝、ドスンと落ちたような音がした。1回だけで、地震かなと思ったがそれきりだった。
 前の夜、高校の時の友人たち3人が集まってくれて、大いに語り合い、泊まっていたので、朝食はけんちん汁でも作ろうと早目に起き出して、7時頃にはみんなに声をかけた。小千谷市に住むF子さんが持ってきてくれた、栗ごはん、ぜんまい煮、ワラビのしょうが醤油ひたし、野沢菜漬、自分で練った手作りエゴ(海藻)がたっぷりあったので、炊いた新米と共に4人でおいしく食べた。その日は何十年ぶりかで高校の同級会が市内の当間高原リゾートのホテルベルナティオで開かれることになっていて、みんなで参加する予定だった。ところが私が急に入院することになり、退院したのが10月17日だったので参加を取り止めたところ、3人の友人たちが前日にミニ同級会をやってくれることになって、忙しい中来てくれていたのだ。久しぶりに会えた友人たちとの楽しい語らいの後、3人は同級会に参加するべく、夕方4時過ぎに出発していった。
 少し疲れたので、こたつで横になっていた。見るともなくテレビをつけていて、もう6時になるのか、そろそろおふろに入ろうかなと思った。
 ドドンと音がした。落ちるような、つき上げるような振動で、ズササッと揺れた。起きあがった体が泳いだ。電気とテレビが消えた。揺れは激しさを増して、家中が聞いたこともないような音で軋んでいる。戸を開けなくてはと思った。廊下のサッシのガラス戸を開けた。このまま外へ出ようかと思った。家が潰れるかもしれないと思うほどの家鳴りがしている。待て、裸足で出るのはダメだ。玄関へ歩こうとするが、揺れが大きくて柱につかまった手が離せない。家中の軋む音はどんどん大きくなる。歩けるほどの揺れになってきた時、戸や柱にすがりながら玄関に行き、戸を開けて外にでた。立っていられなくて地面にしがみつくようにしてしゃがみこんだ。地面はゆれていた。外は街灯が消えて暗い。揺れは収まったかな、まだ揺れているような気がする。地震か、地震だ、震源地はどこだ!瞬間、東京の妹の家族と、横浜に行っている館長たちを思った。むこうの方だったらどうしよう。
  ドーンと来た。音ともに振動も激しい。また地面に這いつくばった。揺れが収まるのを待った。ただ待った。何も考えず、何を見ていなかったような気がする。
 隣家の玄関が開く音がしあて、人声と動く気配がある。「ひろみさーん、大丈夫かーい」マス子さんの悲鳴のような声が呼びかけてきた。「大丈夫、外にいるから」と応えてから、道に出て隣家の前の駐車場に行ったら、マス子さんがしがみついてきた。半泣きで「怖かったねー」と言う。ガタガタ震えている。気がつくと私の膝もガクガク震えていた。この震えはしばらく止まらなかった。私でも震えるのかと思った。自分では冷静でいたつもりだったのだが。
 隣家はマス子さんの夫の勝司さんと息子の等くんが、土曜日だったので仕事先から戻っていた。夕飯の支度に天ぷらを揚げていたところだったとマス子さんは言い、すぐ火を止めて、ストーブも消して、台所から出ようとしたが揺れがひどく柱にしがみついて動けなかったと震えながら話す。2度目が来たときは勝司さんと等くんと3人でしがみついて、収まったから外に出てきたと話す。台所の食器が割れるすごい音がしていたと興奮して話している。みんなそれぞれに、何か話さないではいられないような状態だった。あちこちの家から人が出てきて話し声が暗い中聞こえてくる。
 怖かったねーと少し落ちついてきた頃、3度目が来た。前の2回より大きかった。マス子さんが悲鳴をあげた。みんなでしゃがみこんだ。両手で地面につかまった。この揺れは、収まったと思っている時に来ただけに恐怖を感じた。何となく、地震は大きいのが1度ドンときて、そのあとは余震だけだと思っていたので、始めのより大きいのが来たために、この先どうなるんだろうと不安が募った。
 揺れが収まった頃、バイクの音が近づいてきて止まった。女性が道から駐車場に入ってきて、マス子さんがかけ寄りどうしたのと聞くと、(彼女は民生委員で)一人暮らしの人たちのところを回ってきたところだと話し、みんな無事だったと笑っている。夕食を始めようとビールの栓を抜いたとたんにドーンときたと話し、マス子さんは天ぷらの話しをしている。
 その後、勝司さんと等くんは車庫から車を駐車場に移動し、車のラジオをつけた。「震源地は新潟県中越地方、小千谷市震度6強・・・・」この辺が一番大きかったんだ。大池はどうしたろう。松井さんがひとりだったんじゃないだろうか。でも土曜だからむんなくんも一緒かな、それなら少しは安心だが・・・確かめる手立てはなかった。
 余震の合間をみて家に戻り、物が散乱しているところから懐中電灯、ラジオを探し、上着や毛布をかかえて車に。隣家の3人と一緒に居させてもらう。暗い中を消防団の人達がまわってきて避難所の案内をしてくれたり車が動き出していたりしている。村の真ん中の広い道の両側に、いつの間にか車が列をなしている。みんな車庫から道路に車をだしてきたらしい。こんなに車があったのかと思うほどの台数で、それそれが車の中で夜をすごす準備をしているようだ。
 車の中にひとまず落ちついてから3人は携帯電話でしきりに連絡をとろうとするが通じない。メールを送るが無理のようだ。
 「おなかがすきましたね。ご飯はありませんか」勝司さんが言った。「天ぷら揚げてからおそばをゆでるつもりだったから、ご飯はないです」とマス子さん。「ご飯もおかずもいっぱいあるけど」と私。懐中電灯をつけて台所へ裏口から入ってみた。テーブルの上も冷蔵庫も無事だった。食器戸棚のガラス戸の中は折り重なった皿や茶碗で戸が開かない。無事だった戸棚からコーヒー茶碗の受け皿を取り出し、湯のみ、おはしと一緒に、心配してきてくれた等くんに渡して、買い置きの水(海洋深層水)のボトルと果物の袋をかかえて車に戻った。こんなにたくさん作って持ってきれくれたF子さんに感謝しつつ、等くんが台所に取りに行って持ってきた揚げてあった天ぷらも加えて、こんな状態なのに、たっぷりの夕食をいただいた。
 電話が鳴った。親戚のひとりらしく、無事を伝えた後、電波が途切れがちの中で、親戚の誰れ誰れに連絡してくれと頼んでいた。思わず修さんにも連絡してと言っていた。勝司さんの弟の修さんは妹の連れ合いなのだ。これでとり合えずよしとしよう。
 夜も遅くなってから電話を借りて館長の携帯電話にかけたが通じなかった。大池は勿論無理。蓮沼さんにかけたら通じて、無事でいる旨を話す。長谷川さんがれいなさんとこちらに車で向かっていることと、十日町にいるむんなくんと連絡をとり合っていることを聞く。大池にいるのは松井さんとサダシさんの二人だけと聞いて、増々心配になった。
 その夜は駐車場の車に毛布や布団を持ち込んでシートを倒して広々とした車内でマス子さんと2人でゆっくり寝かしてもらった。この家は車が5、6台もある。ラジオをつけっぱなしにして、余震に何度もとび起きるマス子さんに、大丈夫、そんなに大きくないよと言いながら、ユサユサ揺れる車の中で収まるのを待つ。外は月が明るく、車にも光が入ってくる。朝が近づくと月が沈んで満天にキラめく星々。ここで、こんなにきれいな星を見るのは始めて。街灯と家の明かりがないと、こんなきれいな星空に出会えるんだ。
 余震が収まると車外に出て星を見て、家の裏の草むらで用をたして、また星を見て、車に戻りラジオを聞きながらウトウトする。ドンとくる揺れで震度4かな3かなと言い合うようになり、ラジオで確かめてやっぱりと話し、そんなふうにして時報をもらさず聞き、夜は明けて眩しい朝がきた。
 24日午後、電話が通じた。ミティラー美術館にかけるとれいなさんの元気な声がきこえた。長谷川さんとむんなくんも一緒に壊れた美術館の片づけを始めているとのこと。月見亭は無事でそこで寝泊まり、食事ができることを聞いた。忙しそうだった。あまり無理をしないようにと言って電話を切った。

 〈追記〉
 明るくなった家の中は棚のものはとび散り、テレビはドスンと落ちているし、仏壇はめちゃくちゃ、襖(ふすま)はバタバタ倒れ、本棚のある部屋は足の踏み場もなかった。壁が落ちたり浴室のタイルがヒビ割れて落ちたりと見回るほどに壊れたところがみえてくる。それでも情報が集まるにつれて、この村の被害が少ない方だということがわかってきた。村はずれの墓地は墓石が倒れてめちゃくちゃになっており、隣の村は道に亀裂が入ったり陥没していたり、家が壊れたりしていた。水道、ガス、電話は切れていた。
 ところで、翌日の昼近く、同級会にでてきいた小千谷市のF子さんの車が来て、無事な彼女と怖かったねーと手をとり合った。あの時は、同級会が始まる前で、まず記念撮影ということで名札をつけた(何10年も会っていないのでお互いがわからないだろうという配慮から)男女が並び終えて撮ろうとした瞬間だったという。揺れの後で誘導されて外に避難し、毛布を渡され寒い中外にいて、10時頃「このホテルは震度8にも耐えられるように作られている」というホテルの側の説明でへやに入り、布団の中で夜を明かしたそうだが、余震のたびにみんな(4人)で手を握り合い、死ぬときは一緒だからねと言い合っていたとのこと。夜は炊き出しのおむすびとみそ汁だったとか。とにかくみんな無事だったとのことでホッとした。しかし、彼女は小千谷市でそれでも家は十日町市に近い方だったから、被害は少ない方だったという。東京から来ていた友人2人は、ホテルのバスで越後湯沢に送ってもらって無事東京へ戻った。





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