美術館復旧日記◆
(by Stuff R)

*2005年の復旧日記はこちらです*


少しずつ…確実に…
(12月21日〜12月31日)


12月22日〜23日
市役所と消防署の担当者が訪れ、崖際にある2000L入る灯油用の屋内タンク貯蔵所が崩落のおそれがあるので、燃料タンクを他所へ設置してほしいいとの要望が先週ありました。スタッフ用玄関の物置棚を取り外し、崩れた土壁を取り壊し、石膏ボードをはり、ペンキを塗る作業が増えました。12/24に500L入りのタンクが新たに設置されました。

石工ボードを張った玄関左側

ペンキも乾き灯油タンクを設置されました


12月26日には美術館の台所の土台、弱くなった柱を撤去。流し台のあった床下はコンクリートで固められていて土台柱には15cmの立派な柱が使用されていました。外壁もとってしまったので、それ以来風が吹く度にブルーシートで囲ってあっても雪が入り込みます。

解体された台所

ブルーシートの外は雪です

ブルーシート一枚で外とのしきりにしているので、
ここは館内のどこよりも寒さがが身に凍みます。
救援物資でいただいた大型ストーブが役立っています!



12月21日から降り続いた雪は、屋根の雪降ろしをしなければならないほどになりました。雪降ろしは4トンパネルトラックやマイクロバス、他の車輌、6軒の家と美術館(旧体育館と校舎)を順番に降ろしていきます。建物の周りと屋根の雪の高さは同じなので、1回目の雪降ろしはただ降ろしていけばいいのですが、水っぽい雪が多いのでそれなりに重い。12/28〜30までの間に1回目の雪降ろしが完了。雪の降りが今後どうなるか分かりませんが、安心して新年を迎えられます。例年ですと美術館の玄関前まで除雪車が入ってくれていましたが、美術館脇の土砂崩れの危険のある箇所が、道の雪を押してきた除雪車が雪を崖から落とす場所だったこともあってそれが難しくなってしまいました。復旧作業のために玄関前まで車が入れるよう道を確保するために、また、除雪車が毎日雪を押せるように、館長が危険な崖の上と玄関前の雪をユンボでどかします。

ここでもユンボは活躍しています





復興作業と雪との出会い
(12月12日〜年末)


12月に入って十日町市のボランティア協会の方からの人の派遣は縮小のため困難とのこと。そんな中、大地の芸術祭(アートトリエンナーレ)の時にボランティア協力した関係者が週末協力してくれたり、三条市の水害にあった女性たちが協力しに来てくれたりしました。土壁埃まみれになった食器類や他の細々とした洗い物など、今まで手をつけられなかった所が進んだり、少しずつではありますが部屋に壁(石膏ボード)がはられ、白いペンキが塗られたり、畳が入ったりしていきました。畳一つ入れるにしても救援物資でいただいた畳のほとんどすべてサイズが違うので簡単にはいきません。また、簡単そうでデリケートな作業であるペンキ塗りやパテ塗りなど、養生してもペンキが柱にまでついたり、土壁の補修に使うパテやコンクリが柱についていたりで、今度はそれを紙ヤスリではがしたりなど、作業と共に作業が増えてくることもあっちこっちで起きてきました。それでもみんなが一生懸命協力してくれて作業がはかどりました。

歪んだ柱も直りきれいにペンキが塗られた台所手前



ペンキを塗ってきれいになった部屋


押し入れの中まできれいになった
子供の部屋(食事部屋)




月見亭の穴埋め作業
(12月11日)

 今回の地震で月見亭の軒下にあった穴が拡大し、床の傾きが日に日に大きくなっていきました。雨の水が入ると穴がさらに拡大してしまうということで、ブルーシートで応急処置をして雨水が軒下に入らないようにしてはいたのですが、それでも気が付けば穴はかなり広がっていました。そして部屋の中を歩くとギシギシとし、いつ床が抜け落ちてもおかしくないのではという状態になり、遂に穴埋め作業を決行することになりました。
 まず、穴の上のにあたる居間の荷物をずらし、作業をする場所の畳を取り払いました。そして床を開け、それ以外の場所にはブルーシートで覆い隠しました。町から購入した砂を一輪車で運び入れてはホースで水をかけて固めるという作業を繰り返し穴を埋めていきました。一通りの作業を終える頃には夜になってしまいましたが、雪の季節ももう目前なので間に合って良かったと思います。

砂を水を体重で踏み固めます
一輪車で運べるよう坂を作ります




日夜の復興作業
(11月20日〜12月9日)


ホームページ担当Rは約50日間にわたる復興支援のため大池に滞在していましたが、本来の仕事に戻るため大池を離れることになりました。復旧日記はこれより合同制作となります。Rはホームページを外部において制作。来られる時に大池に訪問していきます。

この期間は崩れた壁の取り壊し、開かない戸の直し、割れたガラス戸にベニヤを入れるなど、風が室内に入り込まないよう、外気が特に入り込みそうな所を修繕。これ以降1月の後半まで、インドの人たちのゲストハウスとなる元教員住宅を中心に美術館の応接室、事務室、2階へと続く廊下、台所、その隣の二部屋、風呂場を含む物置スペースでの作業を行っていきました。



余震!
(11月19日)

 「今日こそホームページの更新を!」とパソコンに向かい、気がつくけば朝5時になろうとしていました。慌てて美術館へ飛んで行き、データのアップロードに取りかかるものの、何故か出来ない。ああでもないこうでもないと試みるものの一向に変化なし。少し休まなければと、ふと時計を見ると6時をまわろうとしていました。と、その時、事務室の廊下側の天井辺りから「ピシッ」という音が聞こえ、美術館が少しグラグラッと揺れました。ここのところ美術館ではあまり余震を感じていなかったこともあり、小さい余震に少し慌ててしまいました。



遂にテレビが…!
(11月18日)

 昨日から一転し、天候が不安定な一日となりました。池の端にある月見亭は「ミティラー美術館最大の展示物は真っ暗な墨の闇夜に毎夜やってくる立体の月である」と話す館長が月見台を作り、月を見るためのゲストハウスにしたもので、元来テレビは置いていませんでした。今回の地震でここ月見亭を避難所としていることで、情報源としてニュースが見れたらという話は出ていたものの、なかなかアンテナ設置が実現しませんでした。
 今日はということで、朝からの作業が一段落した後10時過ぎから総出でテレビのアンテナ設置に取りかかりました。UHFとVHFの2つのアンテナを組み立てたり、美術館から梯子を運んできたり、美術館にその都度足りない工具を探しに行ったりと準備をし、さていよいよ取り付けようにも位置が悪いために悪戦苦闘。いざ取り付けた後も 地形的な問題のためか映りが悪く方向設置に一苦労。結局夕方までかかってやっと完了しました。



柱の修復
(11月17日)


 すっかり雨が上がり、日中は太陽が顔を出して、気持ちの良い秋日和となりました。今日は津南町から中島さんが駆けつけてくださいました。館長に先日月見亭脇で倒した木を薪にしてもらいたいと頼まれた中島さんは、早速チェーンソーで切りに掛かったのですが堅くて切れないとのこと。中島さんの話で、なんとその木が黄檗であるということが判明しました。昨年胃を悪くした館長に、赤倉の村の人が煎じて飲みなさいと分けてくださったのがこの黄檗です。黄色いターメリックの様な色をした液体はとても、苦かったと聞いています。
 さて、中島さんは教員住宅お風呂場の15センチもずれた柱と左側玄関の土台から10センチも盛り上がった柱を館長と一緒に直してくださいました。また夕方には、館長、スタッフY.S、佐藤、Mnと共に美術館事務室の柱を元に戻す作業をしてくださいました。ユンボ(バック-ホー)のバケット部分を使い柱を元の場所へ移動させ、悪戦苦闘した後、L字型の金具を取り付け最後にボルトで締めました。中島さんのお陰で、柱という建物の重要な部分が修復され、大きく前進したように思いました。本当にありがとうございました。
木を使いながらユンボで押す

5センチ程で外れそうだった柱も
この通り!

ユンボで柱を押していく




灯油ボイラー復活
(11月16日)


 「山沿いでは明日雪が混じるところもあるでしょう」というニュースに「まだ来てもらっては困る!」と不安になりましたが、目が覚めて一安心しました。ここのところ雨が降ったり止んだりを繰り返していますので、美術館脇の亀裂部分の状態や、町への通り道となっている市道に土砂崩れが起きないかなど心配事が多くなります。亀裂部分に雨が降り続いていることで土が下がり、今後土を追加する作業をすることになりそうです。幸い、どこが崩れてもおかしくないような市道はまだどこも土砂崩れがありません。和ませてくれていた紅葉も終わりに近づき、日を追うごとに、朝晩だけでなく日中も冷え込んできました。当然の事に、自然は私たちの「待った!」の気持ちとは関係なく、着々と冬へと向かっているようです。屋根の雪堀りを4・5回必要とする冬が本格的に近づく前に、美術館や教員住宅の外側の作業を終えなくてはと、一同奮闘しております。
 さて、来日中のワルリー画の描き手サダシさんとゴルカナさんの帰国が、予定を繰り上げ今月26日に決まりました。以前からお伝えしておりますが、サダシさんは美術館で先月10月23日の地震を体験しました。25日の新潟日報社の取材に「インドでも小さい地震は体験したことはあったが、こんなに大きな地震は初めてで驚いた。頭がグラグラし、昨日は二度吐いた。」等と答えていたサダシさんですが、地震翌日から自ら率先して復旧作業に取り組んで下さっています。11月9日にNHKで放映されたミティラー美術館の特集で、サダシさんは「もしミティラー美術館が閉鎖されたら、ワルリー画やミティラー画の描き手、インドの舞踊団が来られなくなるので是非再開して欲しい」と話しています。未だ小さな余震や振動で驚き、二階で休むことが出来ない彼が率先して活動する姿に大変力づけられました。そして彼の美術館への熱い気持ちに大変感謝すると共に、美術館活動再開、描き手や舞踊団の招聘に向け最大限の取り組みをしていきたいと強く思いました。
 今日再び市のボランティアセンターからボランティアの方々が来てくださり、教員住宅の各部屋から取り出した畳をマイクロバスに積んで、十日町の焼却炉に運ぶのを手伝ってくださいました。
 そして最後にもう一つ。雨の中、館長が美術館裏の灯油タンクの小屋から台所まで続く土中にある管を調べて修理しました。まだ圧が弱く少しずつしか出ていませんが、遂に灯油が台所まで届くようになりました。お湯が出るようになり、作業中の洗い物等が楽になるので、本当に助かります。




毎日が勉強
(11月15日)


 石膏ボードの貼り方を覚えたスタッフ佐藤とスタッフMnは美術館二階制作室前の壁の修理に取りかかりました。この箇所は今まで丁度よく雨が漏らなかったとは言え、ずれてできた隙間から空が見える状態でした。まずは残っていた釘を全て抜き取り、その上に桐縁を打っていきます。次に配線コードに気をつけながらベニアを重ねた合板を打ち付け、最後に石膏ボードを貼り付けました。文字にすると簡単なように思いますが、素人のスタッフ2人掛かりで一日かかる大作業です。
 スタッフRも片付けや掃除等の作業以外に専門的な仕事を受け持つことになりました。内容は美術館の階段の亀裂や石膏ボードで打ち付けられない箇所の剥がれ落ちた壁の修復。まずはということで、二階の階段と本校舎の境部分に約10センチ幅で縦に崩れた壁に取りかかりました。崩れた壁で形が合う物は貼り付け、残りの部分は補修材を埋め込み、最後に漆喰を塗ります。館長にアドバイスをもらいながら工具室や美術館入り口などに材料等を何度も探しに行き、あるもので使えそうな物を見つけるところから始め、こちらも何とか補修し終わった時には既に日暮れという状態でした。
 館長は様々な指示やアドバイス等をして廻る傍ら、階段上がり口にある部屋の扉修復や中の引き戸、割れた小窓の修復などをしていました。そして、スタッフY.Sとサダシさんは一階廊下のパネル板の修復に取りかかりました。
 大工仕事に無知なスタッフばかりでの復旧作業。一つ一つ確実に進んでいるとはいうものの、時間がいくらあっても足りないというのが現状で、近づく雪との追いかけっこになりそうです。

石膏ボードを取り付ける




ボランティア
(11月14日)


 一日中気持ちのよい秋晴れで、月見亭の扉を開け広げお昼をいただきながら眺める風景に、この日は特に「贅沢だなぁ」と感じました。山の紅葉は終わりかけている所も多くなりましたが、それでもまだ秋の様々な色合いを楽しませてくれます。その紅葉の下に広がる大池では魚が元気良く飛び跳ねたり、鯉が悠々と泳いだりしています。風が気持ちよく大池を流れると、あちらこちらで数え切れない程の波紋が日の光を浴びて、きらきらと輝いていく。そんな風景を眺めていると、束の間、日常のことから離れ、癒されている自分に気がつきます。恐ろしさと美しさの両面を持った自然の偉大さを感じずにはいられません。
 さて、今日は午後一番に市のボランティアセンターから、ボランティアの方が6名程来てくださいました。中には大工関係の大学の学生さんや見習いの大工さんがいらっしゃるということで、12日に中断した月見亭脇の倒れかかった木を切り倒す作業をすることになりました。木に梯子を台にして隣りの木に登り、倒す木の枝とその周りの邪魔になる枝を切り落とし、その上で、ロープを巻いた木をユンボ(バック・ホー)で引き倒しました。時間がかかったものの、無事に引き倒す事に成功し「わぁー!」っと声があがりました。
 一方、月見亭脇で作業が進んでいる間に、スタッフMnは館長から簡単な説明を受けた後、美術館トイレ前の崩れ落ちた壁に石膏ボードを打ち付けていました。初めての仕事であったにも関わらず、慎重に幅を計算、カッティングしたり、エア・コンプレッサーで打ち付けたりするなど、試行錯誤で作業をしていたようですが、きちんとした出来上がりに驚きました。ボランティアの方々の帰られた夕方からは、スタッフの佐藤さんが助っ人に加わり、2人掛かりで階段の剥がれ落ちた壁部分に石膏ボードの打ち付けをしました。この校舎が小学校だった頃、階段部分から増設されたのだと聞いていましたが、階段の剥がれ落ちた壁の奥から本校舎の外壁が現れ、かつては階段脇の事務室までの学校だったのだ、とまじまじと感じました。
 復旧作業が進むにつれて、専門的な事が多くなり、当然スタッフも初めての工具や機材を手にしたり、初めての作業をしたりすることが増えていきます。今まで経験したことのないことをする為、失敗することもありますが、それぞれ着実に新しいことを身につけていっているように思います。
館長梯子に登り学生をヘルプする




食事部屋
(11月13日)


 美術館の食事部屋とそのとなりの部屋は、昨日スタッフとボランティアのK.Mさんによって部屋の中の物を全て移動し、畳を全て取り外しました。漆喰の壁が剥がれ落ち土を多く含んでいる為、マスクをしていたにも関わらず作業後にはマスク、鼻の中が茶色になっていてK.Mさんは驚いていました。
 今日は殆どの壁が崩れ落ちたこの2部屋の作業。石膏ボードを貼るために、崩れた土壁を整理した上に桐縁を打ち付けました。また、押入上の戸が下がって歪み、その圧力で障子戸が無惨に壊れ、外すことも出来ない状態でした。ジャッキをつかって戸の上の鴨居を直し、中の物を出すと、押入の中の壁も崩れ落ち、その隙間から隣の部屋が見えました。そして手で押すと窓の敷居ごと崩れ落ちそうな壁はビスなどで固定し、外れて壊れかけた窓も、壊れたガラスこそはめていませんが修復できました。
 石膏ボードを貼るのに使うエア・コンプレッサーを使い、いざ始めようとすると、作動しない。まああでもない、こうでもないと試みるものの、結局取扱説明書を読んでも原因が分からぬままに日が暮れました。

桐縁を打ち付けた壁
崩れ落ちそうだった壁





3週間目
(11月12日)

 余震の回数が減ってきているとはいうものの、全くなくなるという事はなく、ふとした瞬間に彼らはやってきます!いつになったら余震が終わるのだろうかと思いつつ、毎日復興作業に取り組んでいます。
 ここ二日間、市から救援物資を頂けるということで、亀裂部分の作業をする傍らマイクロバスで何度も十日町へ向かいました。教員住宅と美術館の、漆喰が崩れ落ちてしまった畳を張り替えるために頂いた60枚の畳を、雨の上がっている間に美術館の体育館へ運びました。またその他、軍手やゴミ袋、ブルーシート、乾電池など、不足していた作業用品が頂けたので大変助かりました。
 そして、皆が地面の亀裂部分の作業等をしている間も、ボランティアのH.Kさんは、教員住宅の壁に取り残された漆喰の壁をきれいに取り除いて下さったり、住宅の隅々まで掃除をしてくださいました。教員住宅は、H.Kさんやその前のIさんのお陰で、この次の壁作り、畳替え等の段階に入れる状態にまでなりました。ありがとうございました。
 今日は元スタッフのK.Mさんがボランティアに来てくださいました。K.Mさんは早速、スタッフMnと一緒に農業用排水ホースの設置や食事をする部屋の壊れた窓ガラス等の修理、作業用一輪車の修理等をしてくださいました。
 そして夕方からは、現在避難所としている月見亭の道路脇にある木が月見亭に向かって倒れる心配から、総出で作業に取りかかりました。館長が美術館から移動させたユンボで、スタッフS.Yがロープを巻き付けた木を引っ張る。どんどんと暗くなっていく中、次第に強くなる雨が容赦なく叩きつけてくる。館長自らチェーンソーを片手に木に登り、枝を切りにかかるなどしましたが、結局、様々な条件が揃わず、苦労の末作業を中断せざるを得なくなりました。
 先月の本震から早3週間が過ぎようとしています。多くの方々から頂いたお見舞いや応援のメッセージを一つ一つ読む度、温かくなり、また励まされます。本当にありがとうございました。一方で、館長共々皆様からのメッセージに少しでも早くお返事をと思いつつ、なかなか出来ない事、大変申し訳なく思っております。館長の眠気の限界まで毎晩口述筆記をしておりますが、追いつかないのが現状です。
 出来るだけ多くの情報をホームページでご紹介したいということで、スタッフ一同毎晩準備作業をしておりますので、今しばらくお待ち頂けたらと思います。
 また、皆様がご心配下さる中、わたくしの「美術館復旧日記」の更新が遅れてしまったこと、深くお詫び致します。今後は可能な限り更新していきたいと思っております。


いよいよ美術館脇の亀裂へ…
(11月9日〜11月12日)

文章と共にこちらの写真もどうぞ*


 今後天候が崩れ始める前に、美術館へ上がる道から続く大きな亀裂を何とかしなくてはならないと。本震で大きく亀裂が入っていたところが、続く余震で広がり、アスファルトの部分は崩れ、土の部分は段差になってしまっていました。<写真1>
 十日町で2tのダンプ-カーを一日8,000円程度で借りられるという情報を入手し、早速レンタルの申し込みをすることに。スタッフ佐藤、Mn、R、サダシさんとゴルカナさんの人力グループは、崩れ落ちたアスファルトを一つ一つ拾い上げていきます。
<写真2>館長はユンボ(バック-ホー)で美術館裏の畑へ向かう坂道を削り、スタッフS.Yが削った土をダンプ-カーで運んでいきます。<写真3>人力グループは運ばれてきた土の山をシャベルを使って細かい亀裂部分へ埋めてゆく。<写真4>ダンプ-カーが6往復位したところでユンボが登場し、土を運びながら踏み固めます。<写真5>再びユンボは坂道を削り、ダンプ-カーで土を運ぶ。思っているよりも大量の土を必要とし、何度も何度もこの作業を繰り返します。
 土を埋め込んだ後、拾い上げたアスファルトをパズルのように敷き詰め直していき、再度土と共にユンボで踏み固める。砂利を購入し、ダンプ-カーで十日町と大池を3往復して運び込みます。亀裂部分に砂利をしき再度土と共にユンボで踏みならしました。
<写真6>
 地面が少し落ち着いたらセメントを流すかどうかを検討するという事だったのですが、11日なると天候が悪くなり雨が降り始めました。急遽、市から提供されたブルーシートを亀裂部分全体にかぶせ土嚢を置いて固定させる事にしました。
<写真7>雨が崖に流れて亀裂部分が崩れないようにするため、傾斜を作って水の流れを変えていきました。しかし、翌朝になると時に雷を伴う強い雨になり、状況は刻々と変化していく。傾斜を作っただけでは駄目だということで、十日町に農協用の排水ホースを買いに行き、溜まった雨がホースから流れていくようにすることで、応急処置としました。
 今後この亀裂部分は天候や状態等を見ながら随時より良くしていく必要があります。



救出されたサラスヴァティー
(11月7日〜11月8日)

 お天気に恵まれ、気持ちの良い秋日和になりました。夕方、東京から半田さん(たばこと塩の博物館学芸課長)が駆けつけてくださいました。始めは事務室と応接室の境目である壁を修復したり、本棚が地震で崩れないよう固定したりしてくださっていたのですが、館長の要望を受け美術館一番奥に展示されていたテラコッタの修復に取りかかってくださいました。美術館内には陶工パンディット兄弟が来日してつくった大型の素焼きの焼き物、テラコッタが数多く展示してありました。倉庫へ入れることが不可能で、半永久的に展示していた2メートル強のハヌマーンや馬、壺など8割以上の大作が壊れてしまいましたが、中にはサラスヴァティーのように2割程度の損傷ですんだものもありました。半田さんは壊れたサラスヴァティーの破片や周辺の破片を全て救出し、記録写真を頼りに見事復元してくださいました。
 将来的には出来る限りのテラコッタ全てを修復していきたいと、館長は話しています。



本震から2週間
(11月6日)

 突如襲ってきた新潟県中越地震にも関わらず、様々な偶然が重なり、スタッフ、ワルリーの描き手、来日中の舞踊団の全員が怪我1つなく無事だったことに、今、改めて感謝しています。地震直後の24日の朝、覚悟をして思ったより冷静に美術館内を見回りましたが、それでも愕然としたことは事実です。そして何より、容赦なく続く大きな余震を体験したといっても、スタッフ松井、Mn、そしてサダシさんの感じた不安や恐怖などを十分の一も理解出来ていないのだなと思いました。松井さんは今でも殆ど美術館へ行けず、必要なものを取りに美術館の階段を上ろうとすると頭がクラクラし、心臓がバクバクするといいます。サダシさんも地震を体験した教員住宅では眠れないし、今泊まっている家も二階では眠れないといいます。
 2週間が経ち、当初の状況から比べれば驚くほど片づいてきているように思いますが、館内への灯油パイプの供給が出来ていなかったり、事務室や台所など最低限の部分がまだ機能していないなど、美術館として機能出来るようになるまでの道程は遠く、長丁場になりそうです。
 さて、今日はスタッフの蓮沼さんが駆けつけてきてくださり、ボランティアのH.Kさんと共に、事務室の片づけ、会計関係の整理などをしてくだり、少しずつ事務室らしくなってきました。



復興支援公演と舞踊団の帰国
(11月2日〜11月5日)

 2日の夜、館長から急遽4日横浜で復興支援公演(ゴティプア舞踊特別公演)を行うことになったと知らされました。早急にホームページ掲載とメール・電話告知を!との指示があり、ホームページについては今夜中に載せるようにとのこと。スタッフの佐藤さんが館長の口述筆記をしている間にホームページをある程度制作。2人がかりの作業ではどうしても美術館事務室のパソコンも使わなくてはならず、剥がれ落ちた壁の隙間や閉まらなくなった窓の隙間から遠慮なくやってくる風に、「いい眠気覚ましね」と明るく話しながら事務室で作業していたのですが、深夜になってくると吐息が白く見えるようになり「寒いね…」の連発に。このままでは風邪を引いてしまう!ということで小さなストーブを探し出し、机近辺だけですがほんのり暖かくすることが出来ました。深夜遅く何とかホームページに掲載し、掲示板の告知も完了。
 翌早朝(公演前日)からは、メール案内を送る準備を開始。佐藤さんはコンピュータールームや事務室を行ったり来たりしながらグループ分けされた送信リストを作成。その間Rはメール案内用の文章を書き、更正を館長にお願いする。といっても、時にはユンボ(バック-ホー)を動かしていたり、灯油タンクのある小屋にいたりといった具合でなかなか捕まらない。そしてグループ別文章を完成し、送信を開始すると追加がどんどんと増え、中には英文で送るようにという指示が来たり。そんな中、佐藤さんは町へ工具を買いに行ったり、Rの元へゴティプアの少年達が野菜やスパイスを取りに来たり、指を切ったとか、作業用に軍手が欲しいなどとやってくる。一日というのは本当にあっという間で、最後のご案内を出し終わった時には既に日が暮れていました。夜は公演、会場で販売することになった描画等の準備。
 公演当日は午前11時に出発ということでしたが、舞踊団の荷物や売店品、ケータリングなどを積み、足りないものチェックしたり、出発前に急遽スタッフ松井が夕食分のダルサブジを作ることになったりと、バタバタして予定より30分遅れての出発となりました。4時半頃、横浜の会場に着くと、お手伝いをしてくださるというボランティアの方が2人待機していました。ゴティプア舞踊公演には、急な決定にも関わらず40人程の方が集まってきてくださいました。舞踊団も美術館を支援する公演、又来日最後の公演ということで、張り切って初めての演目をいくつもするなど、人々を魅了しました。また、会場でサダシさん、ゴルカナさんによるワルリー画の公開制作も行い、サダシさんの地震体験もお話しました。そして公演後は、美術館の被災状況写真を公開し、皆様に少しではありますが状況報告をすることができました。
 翌朝5日、ゴティプア舞踊団を成田空港で見送ると、早速マイクロバスで美術館へ向かいました。途中錦糸町でスタッフS.Yさんと元スタッフだったボランティアのH.Kさんを乗せて美術館へ急ぎます。十日町から大池へ向かう途中、ラジャースターン、ゴティプアと2つの舞踊団を無事見送り、これから全面的に災害復興に取りかかれるからでしょうか、館長はマイクロバスを止めては地元の人に声をかけていきました。ピリピリしがちだった館長からいつも通りの温かさが戻ってきたんだなと、頼もしく思えました。美術館へ着くと、ボランティアのIさん、Sさん、Yさんの作業もぐっと進んでいて、感謝すると共に早速復旧作業に取りかかり、前へ向かおう!と心の中で叫びました。



大勢の手…
(11月1日〜11月3日)

 朝になると、ゴティプアの少年たちが野菜やミルクなどを取りにやってきます。時には朝6時前に来て、休んでいたスタッフ松井を驚かせたこともあった彼らでしたが、久しぶりの地震前と変わらぬこの日課に少しほっと出来るような気がしました。
 自ら探して出来る仕事が少なくなってきたこと、また作業できる人材が増えてきたこともあり、胃を悪くし、また連日の睡眠不足の続きも手伝って非常に辛そうな館長のもとへ指揮を仰ぎに行きます。結局、現場を館長と一緒に見て廻りながら、それぞれが作業を開始。日中はゴティプア舞踊団のリーダーであるサントーシュさんとディベンドラさんがワルリーの2人の描き手と一緒に率先して音楽室、廊下の作業を手伝ってくれました。また、ゴティプアの少年たちも軍手をして館長やスタッフのS.Yさんと一緒に、ナマステ・インディア2004で使ったステージをかたづけたり、町の消却所へ崩れ落ちた漆喰などの大量のゴミを出す等の作業をしてくれました。
 また、15年ぐらい前にJIVAの関係でボランティアをしてくださったIwさんも駆けつけてくださいました。館長、ボランティアのIwさん、Yさんを中心に、美術館台所の切れた水の管を修理して水を使えるようにしてくださったり、台所外にあるコンクリートで囲ったガスボンベの収納庫の修復、台所脇の基礎の外れかかった物置兼燃料給油所の修復、燃料小屋の大幅にずれた燃料タンクの修理などなど、生活する上で重要な部分を着々と修復していってくださいました。何より始めに水を使えるようにしてくださったため、掃除等をするにも本当に助かりました。
 一方、ボランティアのIさんはスタッフや舞踊団等が宿泊していた教員住宅の片付けをしてくださいました。美術館と並んで今回最も被害を受けた一つである、ぐちゃぐちゃの教員住宅にIさんは黙々と向かっていってくださいました。時々ゴティプアのリーダー達も手伝ってくれていたようでしたが、ガラスの破片や崩れ落ちた壁等で歩くことが出来ない廊下をはじめ、ほとんど1人で作業をし最後にはすんなりと歩き回れるほどにしてくれました。
 そして、ボランティアのSさんはコンピューター室や工具室、展示室へ向かう廊下など様々な部分の片づけ、また台所脇の物置兼燃料給油所のペンキ塗りなどをしてくださいました。元スタッフだったボランティアのK.Mさんは美術館台所の水回りの掃除や、美術館のミュージアムショップの片付け、仕分けなど、夜遅くまでしてくださいました。
 スタッフ、描き手、舞踊団が全員揃い、そしてボランティアの方々が集ってくださったお陰で、「被災地」という重たい空気を帯びているように感じられていた美術館が、余震が続きつつも励ましの声、渇を入れる声、笑顔、少年達の歌声などが飛び交う、明るさを持った場所へと少しずつ変化しているように思います。地震から一週間あまり。美術館中至る所にあった崩落した漆喰の壁や割れた窓ガラス、ずれてしまった扉、崩れ落ちた棚や散乱した書籍などが、今ではすっきりと片づけられている。館内の全ての部屋へ何不自由なく出入り(土足で)できるようになったことは、復旧への一つ目の山を越えたと言えるのではないでしょうか。すべき事は、それこそ山のように限りなくあるのですが、作業の進み具合とは関係なく定時になればお腹の虫が鳴り、力が出なくなってしまうという自然なリズム…これには皆敵わないのです。



全員無事帰還
(10月31日)


 午前の便で、ラジャースターンの一行が無事帰国。美術館のマイクロバスは舞踊団の泊まっていた光恩寺へ戻った後、ゴティプア舞踊団とボランティアに来てくださる2人を乗せて出発。館長の運転するマイクロバスの後ろに、スタッフS.Y、スタッフ佐藤それぞれが運転する乗用車が続き、夕方5時過ぎに無事美術館に到着しました。
 一方美術館では、それぞれが着々と作業を進めていました。ボランティアのSさん、Yさんは、倒れてぐちゃぐちゃになった資料棚を修復、大量の資料を戻してくださり、廊下が復活しました。音楽室では、一寸角とベニア板で作った巨大な棚2つの修復が終わり、残すところ一番奥の一角だけとなりました。ただ部屋の中でこの部分が一番損傷が酷く、壁全体が崩れ落ち、窓ガラスが全部割れてしまっている状態。また、重たい音楽機材があるスペースであるため作業は難航していました。ゴティプア舞踊団の泊まる家の掃除もなんとか間に合い、一安心しました。
 到着したゴティプアのグループは早速自分たちの泊まっていた家から荷物を救出し、小さな引っ越しを開始。少年の1人は「cloth man!」と言い、顔に苦笑いを浮かべながら、衣服を詰め込んだ風呂敷を背中にしょって歩いてきました。まだ完全に
暗くならぬうちに全ての荷物の移動が無事に終了。
 夕方過ぎに到着したばかりなのに、ボランティアに来てくださったM.KさんとIさんは早速事務室の倒れた本棚の整理を手伝ってくださいました。司令塔の館長始めスタッフも全員揃った美術館は一気に活気づいたようにも感じられました。




一週間ぶりの休日
(10月30日)

 地震発生から、早いもので一週間が経ちました。今朝方も余震があり、避難している月見亭がギシキシと、長時間音をたてました。毎日朝から作業をし、作業跡を見るとその成果に小さな喜びや達成感を感じますが、大きな美術館全体で考えれば、修復のための準備段階の入り口に過ぎず、雪の降りしきる冬に向けて早急に復旧していく必要があります。今回の修復は非常に長期的になると予想されるため、力の回復の為に今日は一日お休みをとることにしました。



秋日和
(10月29日)

 毎日少なくとも一日二回は震度3程の余震があり、それが日中の作業中であったり、夜中休んでいるときであったりなので、皆精神的に休まらない緊張感のようなものがあります。(特に地震発生時美術館内にいたスタッフ松井のそれは私の想像を超えるものがあるようです)
 今日はスタッフMnを中心に音楽室の大型の収納棚を作り直し
、補強して少しずつ入っていた物の整理を始めました。また階段や二階の廊下に崩れ落ちた壁も取り除かれました。スタッフRは31日にゴティプア舞踊団の皆が戻ってこれるよう、一日がかりで池の端にある家の掃除に取りかかりました。この日はとてもお天気だったので大池の脇にブルーシートを敷いて、朝から布団を天日干しに。また、お天気のお陰で洗ったシーツ類もほぼ乾いてくれました。山からの水があって舞踊団の使うシーツ類を洗うことができて、本当に感謝しています。
 また、余震が来ると現実に戻されるのですが、とても良い秋日和で紅葉し始めた山があったり、季節はずれにぽつんと2つだけ咲いてしまった桜、池の魚が元気に飛び跳ねたり、夜になるとまん丸とした立体の月が雲の間から顔をのぞかせたりと、地震があってもここに自然が変わることなく存在していることを感じさせてくれます。



館長再び…
(10月28日)

 毎昨夜遅く美術館に戻った館長は朝の見回りを終えた後、昨夜の余震でずれた事務室の柱にと美術館裏からユンボを運び出し、ユンボのバケット部分を柱に着けて固定することで応急処置とし、再び群馬県光恩寺に向かいました。出発する際、ワルリーの2人に「4 Nights!」で戻るからと行うと、サダシさんが少し不安げな表情を浮かべたので、なんとか頑張らなくちゃと思いました。
 また、ボランティアの方が階段の外れかかった柱の補強をしてくださり、二階へ上がることが出来るようになりました。食事をしていた部屋も手で押すと壁が外へ崩れそうな程壊滅的な状態ですが、ボランティアの方が崩れ落ちた壁をはき出してくださったので、ずっとすっきりして今後の修理がし易くなったと思います。
 スタッフMnとワルリーの2人は今日から音楽室と呼ばれる倉庫にとりかかりました。倒れた絵画をおこしてざっと整理した後、崩れ落ちた手作りの収納棚へ。その棚のあった壁がかなり崩れ落ちていたため、ベニヤ板等を使って壁を補強したのですが、そこには電柱からくる電線など様々なコードがありかなり手こずったようでした。それでも無事に壁の補強を終え一日の作業を終了しました。
 また、音楽室の進行を手伝いながら事務室の整理に取りかかったRでしたが、入って右手のコピー機、1台目のパソコン、スキャナーを使えるよう復活させるだけで一日が終わってしまい、気持ちについてこれない、作業の限界を思い知らされました。
 しかし、今日はサダシさんたちが連日トライしていた電話で家族と連絡がとれるという嬉しい事がありました。インドの新聞にも日本の地震の事が報道されたと言うことで、無事を伝えてほっとした様子でした。



4日目
(10月27午後11時半)


 地震から4日目の朝を迎えると、日中の作業、昼だけでなく、寝ている時にもやってくる余震のためか、体が重くすぐに起きあがれませんでした。口には出さないけれど、ワルリーの2人にも疲れが見て取れるようでした。
 午前中はスタッフY.Sさんの出発に合わせて、プレートやチャパティを作るセットを二つの宿舎に探しに行ったり、滞在の為の準備をして、さぁ、もう少しで出発と言うところで、、、震度6弱の余震再び!館内から慌てて飛び出しみんなでグランドに避難すると、学校がキシキシ音をたてていました。その後も余震があると判断し、作業は一時中断。そして午後から美術館入り口と入り口脇にある倒れたパネル群をなおした後、夜6時には作業を中止しました。今晩はゆっくり休み明日からの作業に備えて行きましょうと話し合いました。
 さて、舞踊団一行は新潟県・聖籠町でのワークショップを終え、明日の公演先群馬県の光恩寺に向かったと、そして同時に急遽、館長が美術館に向かっているとの連絡が入りました。夜10時半過ぎ、土砂崩れを除けてもらい無事に到着しました。美術館を見回り、作業の指示をした館長は、再び明日の舞踊公演に向けて明朝群馬県に向かいます。




スタッフS.Y再び…
(10月27午前11時)


 スタッフのS.Yさんが、救出したラジャースターン舞踊団の荷物と今後の生活に使うスパイスや調理器具を積んで、舞踊団の所へ向かいました。彼が出発する直前に震度6弱の大きな余震、小さな余震が続きましたが、取りあえず出発。その後道が完全に閉ざされ歩いてきたという菅沼の方の話を聞いて、ギリギリ間に合ったのだと肩をなで下ろしました。
 ただ、その余震のためでしょうか、事務室脇の大きいな柱が大幅にズレ現在その修復に頭を悩ませています。また今朝は行けたのですが、階段がもう危なく二階へはあがれないとのことでした。現在美術館にはワルリーの描き手2人、ボランティアの方が2人、そしてスタッフ松井、R、Mn、とシルバーという7人と一匹がいて、一丸となって奮闘しています。個人的には、大黒柱の館長とS.Yさんに出来るだけ早く戻ってきて欲しいと思っていますが、公演のことや道路状況のこともあり、なかなか難しそうですので、それまで何とか持たせたいなと思っています。




雨の一日…
(10月27午前0時30分)


 地震発生から、多くの方々から心配やお見舞い、励ましのメッセージを電話やメール等で頂きました。本当にありがとうございました。中には海外からニュースを聞きつけて慌ててご連絡下さった方々もいらっしゃり、美術館や作品、また大池・赤倉に思い入れのある方々の温かい声援が大変身にしみております。また、昨夜東京から12時間もかけてボランティアの方が来てくださいました。危険な夜の道中の中、本当によく来てくださいました。揺り返しの地震、当面の道路の復旧、そしてこれから冬に向かっての道路問題や復旧、美術館活動など不安を隠せない部分もございますが、皆様の温かいご声援を胸に、ポジティブに一歩一歩進んで参りたいと思います。
 
 今日は昨夜晩(25日)から一日雨に見舞われましたが、応急処置によって雨が大量に館内に入ることは防げました。また、舞踊団一行と一緒にいたワルリー画の描き手ゴルカナさんとスタッフS.Yも無事美術館に到着し、サダシさんもとても安心したようでした。26日の美術館内の作業では、一階の廊下、台所へ向かう廊下が通れるようになり、道具室と隣の収納部屋の修理もできました。実際に一つ一つ作業していく段階になると、あぁ、ここもこうなっているんだ、と崩れ落ちた壁や膨らんだ柱の木等々色々と見えてきて、中には驚きを通り越して笑ってしまうこともあります。この日は日中体に感じる余震がほとんどなくとても落ち着いた時間でした。
 さて、ゴルカナさんとスタッフS.Yと入れ替わりに、館長が舞踊団のところへ向かいました。舞踊団に支払うお金等の資金作りの為に現在あるスケジュールをこなさなければならない現実があるのです。急遽舞踊団の宿泊スペースの為に自宅スペースを提供してくださったスタッフ蓮沼さん、無理なスケジュール等の中温かい心で受け入れてくださっている20名の舞踊団の皆さん、本当にありがとうございます。
 



一夜明けて…
(10月25午前10時)


 昨夜、何度も余震があり、明け方には震度5の長めの余震がありました。夜が明けて美術館へ来てみると、美術館脇のアスファルトの亀裂がさらに広がり、深くなっていました。浅い亀裂が美術館のすぐ側まではいっていました。
 まだコンピュータールームまでは見に行っていませんが、幸い出入り口に引っ張っていたEthernetのケーブルが無事でしたので、持参していたノートパソコンからこの日記をお伝えすることができました。
 昨日は玄関の入り口と完全に崩れ落ちたジャンガルシンの飛行機の壁(応接室左側)を拾い上げたり、当面の食材や料理器具の救出で終わってしまいました。 また余震です。 明日から雨が降るというここですので、今日中に屋根の修理、雨対策、台所の水回り、舞踊団の泊まっている宿舎のガラスの復旧などができたらと思っています。





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