今年の6月、ミティラー美術館の長谷川時夫館長から思わぬ報が入りました。中国で開催予定のインド美術展を、その後日本へも招聘しようという動きが、インド政府側より表明されたという事でした。そして展覧内容は、コルカタ・インド博物館の仏教美術という、嬉しい驚きのニュース。しかし一方で、展覧会予定が数年先まで決まっている日本の美術館・博物館の常識では考えられない課題、つまり「半年後に開催したいので急ぎ受入先を探したい」という急務がその実現の前に立ちはだかっていました。その後長谷川氏を含め関係者の奔走が実を結び、当初の計画よりやや遅れるものの、来春には東京国立博物館での開催が決定した事も私には重ねて嬉しい驚きとなりました。
すでに東博の方でも広報が始まったのでこれから見聞きされる方も増えることでしょうが、コルカタ(旧カルカッタ)・インド博物館(以降コルカタ博と省略)の創立は英国植民地時代、1814年のことになります。インドの首都は、1931年にデリーに制定されるまでカルカッタ(現コルカタ)に置かれていたので、コルカタ博は「大英帝国博物館」たる権威をもって設立され、インドのみならずアジアで初の、そして最大規模の総合博物館として注目される存在であり、収蔵品は英国領時代に集積された文化遺産の象徴として質量共に並々ならぬ威光を放っています。今回の展覧会は特に仏教美術に焦点を当てて行われますが、このコルカタ博の仏教美術コレクションはまた際立っています。過去わが国で開催されたインド系の美術展にそのごく一部が展示されたことはありますが、コレクション全体を概観しその素晴らしさに触れるという意味では今回が初めての機会となります。
来日する作品の制作年代は古代から中世にかけて、実に1300年以上の幅があり、インドで生まれ育った仏教美術の様々な側面が映し出されます。
たとえばインド古代初期(前3〜1世紀)。この時代は「無仏像時代」とも言われストゥーパ(仏塔)の装飾美術が栄えました。コルカタ博は紀元前2世紀頃に造営されたバールフットのストゥーパに属する遺構を復元展示した「バールフット・ギャラリー」が有名ですが、出展されるバールフット出土の浮彫数点はストゥーパ美術では現存最古の部類で、ようやくインドで石彫が普及し始めた時代にあって、彫刻技法はややぎこちなくも仏の教えを懸命に伝えようとする初発的な魅力に溢れています。(図1)
続く古代中期(後1〜3世紀)は仏像誕生の時代。二つの仏像の故郷、「ガンダーラ」と「マトゥラー」に絞った展覧会が、2002年に東博で開催されたことはまだ記憶に新しいかと思います。今回来日するコルカタ博所蔵のガンダーラ美術とマトゥラー美術の数々は、前回の展示品と一つとして重複していません。この両者を同時に観る事で、私たちはヘレニズム文化の薫陶を受けたガンダーラと古代初期インド美術の伝統を持ったマトゥラーにおける仏像創作の在り方がいかに異なるかを目の当たりにできるでしょう(今回の展覧会ではマトゥラー出土ではありませんがマトゥラー派の仏像と対面できます、図2)。またガンダーラ地方ローリヤン・タンガイ出土の名品をまとまった形で見られるという点でも貴重な機会といえるでしょう(図3)。古代後期(後4〜7世紀)はインド古典文化の黄金時代。仏像の様式も成熟し、「グプタ様式」あるいは「古典様式」としてアジア各地に大きな影響を与えました。わが国では法隆寺金堂の壁画様式にその反映が見受けられます。特に釈迦初説法の聖地であるサールナートで量産された仏像には気品と優美さが溢れています(図4)。
中世(8〜12世紀)に入ると、仏教はヒンドゥー教と深く影響し合い、密教美術へと発展します。そして中世末、インドでは、イスラーム勢力の侵攻と共に、仏教及び仏教美術が終焉を迎えます。インドで最後に密教美術の花を咲かせたのは東インドのパーラ王朝でした。インドの東玄関に位置するコルカタ博はパーラ美術の宝庫でもあります。仏像では台座と装飾的な光背を備えた碑像形式が発達し、前代にはなかった緻密で精巧な彫法が見られます。またパーラ時代にはシュロの葉に経文と挿絵を記した「貝葉写本」が数多く制作されました。その大半はイスラーム勢力によって惜しくも消滅してしまいましたが、それでもまだ難を逃れ、今日まで遺された希少な写本が散在します。今回の展覧会ではイスラーム時代を生き延びたパーラ写本の貴重な古例が出展され、独特の彩色と筆跡を間近で堪能する事ができます。仏像にしても写本挿絵にしても、パーラ時代には数多くの種類の密教尊像が表される点でも、注目されます(図5)。
インド仏教美術がわが国の文化遺産に多大な貢献をなしたことは誰もが知る所ながら、実際には美術作品の露出度は意外なほど僅かです。インド美術の展覧会が日本で開催される機会は滅多になく、日本国内の収蔵・展示品も極めて限られています。その意味で今回の「コルカタ・インド博物館所蔵 インドの仏 仏教美術の源流」展は、インドで仏教美術が生まれ、消滅するまでの千数百年の足跡がコルカタ博の名品を通して雄弁に語られる、またとない展覧会となるでしょう。
各時代を通じて展示品の中には、仏像以外にブッダの伝記を表した仏伝図、過去世を取り上げた本生図など仏教説話図の占める割合も少なくありません。それは、ブッダが人として生まれた国ならではの傾向と言えるかもしれません。またインドの仏教彫刻は大半が石造であり、主題、材質、様式とも日本の仏教美術とはかなり趣が異なります。インドの大地で育まれた仏教美術は、おおらかな祈りと生命讃歌に溢れています。まずは故郷インドにおける特有の広がりと奥行きにじっくりと触れ、わが国の仏教美術との違い、隔たりの中にこそ大いなる仏教美術の旅路を感じて頂きたいと思います。多くの日本の方々が来場され遙かなる仏教美術のルーツに触れる機会を楽しまれます様、学生時代にインド美術の虜になって以来、足繁くコルカタ博に通い続けている一研究者として願っております。
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