長谷川時夫に関係する推薦文
■2017年度 国際交流基金地球市民賞への推薦文
 (公財)日本博物館協会 専務理事 半田昌之 氏

 私はNPO法人日印交流を盛り上げる会の活動が地球市民賞に相応しいと思い、推薦いたします。 国際交流と一言で言いましても様々な活動がありますが、私が監事を務めているNPO法人日印交流を盛り上げる会の活動が、他と違い、ただ交流を継続しています、全国北から南まで紹介しましたという数字だけでは理解できない、「日本から発せられる」、「情け」、「宇宙観」、という3つのキーワードなくしてはできないという点を推薦理由として書かせていただきます。それらはこれからの日本に必要であり、また日本が今後益々アジアのみならず地球規模で捉えた場合においても重要な視点であるため、強く推薦するものです。

1「日本から発せられる」
明治以来の欧米偏重、欧米の後追い文化、市場主義に任された文化の質の低下、経済優先の歪み。このような日本社会の現実の中、明治以前の縄文に至るまでの文化遺産を糧とし、現代に相応しい国際交流のメッセージを発信する。それは、戦前や明治の頃の日本人回帰とは異なる。
インドに世界各国の若者が集まりそれぞれお国の歌を歌うことになった時、日本の若者はせいぜい「荒城の月」を歌うぐらい。それも他国から見れば、西洋的である。
経済的に豊かさを得た日本はそろそろ伝統の延長線にある新しい日本文化を創るべきだろう。その意味でアジアの古い文化を温存しているインドとの文化交流は、様々な示唆を日本人に与えるはずだと思える。
昨年に続きインド政府派遣の舞踊団が佐渡市との共催で3年連続公演、保育園・幼稚園、小中学・高校でのワークショップを行った。インド政府が舞踊団派遣を決定し、グループの名前、写真等を送ってくるのは1〜2ヶ月前。1年前に予算化する日本社会では行政や組織、文化施設が対応することができない。それを可能としたのは1992年以来2009年まで旧赤泊村での国際交流を、当会やその前身のポストインド祭を考える会と赤泊村との奇跡ともいえる濃厚な文化の国際交流があったことによる。
92年の最初の公演はインド音楽の源流と言われる「ドゥルパット声楽」、600年続くダーガル家のザヒルディン・ダーガルと甥のワシフディン・ダーガルが1,000人を超える村人を前にして熱唱。公演はこの難解な音楽とセットで女優で有名なマムタ率いるマムタ・シャンカール舞踊団が加わった。料理教室、村あげての歓迎会、外務省の調整官までも駆けつけた。保育園から中学まで子どもたちとのワークショップも行った。隣の小木町から太鼓芸能集団「鼓童」たちも参加し、驚嘆の言葉を村役場の人に告げる。質の高い文化の交流が長い継続へのきっかけを作った。
17年というと保育園でワークショップに参加した子どもが大学生となる。インドの描き手に感動した小学生は芸大に入る。そのお母さんは娘が毎日会場に出向き、描く姿を見に行っていたと語る。
合併によって、何故一地区だけに特別予算をつけなければならないのかという理由で休止となるが、数年を経て元職員達の力も借りて3年前から広域ではあるが復活した。
インドの宝とも言うべきドゥルパッドはフランスではインドと同様に何組かのグループが参加するドゥルパットフェスティバルを開催している。自分の目で良いものを選べる国民の心が育っている証拠だ。インドとかかわることで世界からの日本の現状が見え、その解消のために必然的に次の行動が始まる。
赤泊の事例は世界に出しても負けることのない日本からの文化発信と言える。

2「情けと国際交流」
情けという言葉を湿っぽいイメージではなく日本の文化遺産として育まれたら良いと思う。情、心と言っても良いだろう。
アイヌを法律の中で土人という言葉を使うことを止めたのが1997年。富が若者や貧しい人に回らない日本の現状。皇居の周りを車で通りすぎる時に外を眺めるとゴミ一つないことに驚かされよう。
インドの村落のアーティストが来日した折り、どこのコンビニやスーパーに行っても卵がたくさん置いてあること、日本全国にどこに行っても同じようだが、何度日本に来ても鶏を見たことがない、と言う。東京の人口に供給される卵はどのような仕組みになっているのか。供養はしているのだろうか。
当会の理事長は45年卵も鰹ダシも取らない菜食者だ。菜食というキーワードで日印を比較すると、日本人の他の人に対する尊厳を認めることや他人と自分との異なる世界に配慮することが弱いように思える。
当会が主幹する「ナマステ・インディア」のステージで、フェスティバル特有の万雷の拍手を得て高揚した踊り手のリーダーがクリシュナというヒンドゥーの神の踊りを踊ったのにもかかわらず、団員たちに無事終えられたお祝いに今日はビフテキを食べに行こうと言った。インドの踊りの先生などヒンドゥー教徒で菜食が多い。何年にもわたってインドを訪れ先生から踊りを習う。先生を招待している時、たまたま居合わせた理事長がそのお菓子はビーフエキスが入っているからだめだよと指摘した時、美味しいと言って昨日食べていたから大丈夫、と言ったという。日本の御坊さんは永平寺や比叡山で修行中は菜食だが、外では違うのが一般的だ。京都市とインドバラナシ市とのパートナーシティ提携の意向書が2014年に交わされた。舞妓さんがバナラシの町を楽しそうに歩けるとは思わないが、インドの文化に歴史的に多大な影響を受け、美しい仏教寺院や町並み、世界の観光地となっている京都であるが、精進料理のお店に行っても作っている人たちは菜食ではない。かたやバナラシではモディ首相がすべての寺院には女史トイレを作ろう、首相自ら朝外に出て箒で道のゴミを片付けて行かなければならない町。しかし食べ物は菜食の人がその料理を作る。
首相自身が菜食で、ホワイトハウスでの初めての歓迎晩餐会で水しか飲まなかった話は有名である。このモディ首相は初来日の時に、これからはアジアの時代と言われるけれども、日本とインドがどのように協力しあって、未来のアジアをどのように創造していくかにかかっていると言われましたが、日本の形だけきれいにという世界とインドの魂の世界が相互に欠けたものを埋め補い、新たなものを創り出せればと思う。
今年は2017年日印友好交流年の年で、東大寺で開催された前半のハイライト事業を終え、ナマステ・インディアを中心とする後半のハイライト事業を盛り上げるべく活動している。10年前の2007年日印友好交流年の年にインド政府が派遣した24の舞踊音楽グループを北は利尻から沖縄の与那国まで157公演の開催に当会は尽力した。そこには噴火のあった三宅島、中越大震災のあった川口町、小千谷市、長岡市で仮設住宅に住んでいた山古志村の方々など離島はじめ様々な地方に、大都会のみならず理事長自らマイクロバスを運転して実現した。これだけの質の高い全国規模の心ある国際交流は両国の関係者や関係機関、財団、地方自治体、ボランティアなどの多大な協力なしではできなかったのは言うまでもない。

3「宇宙観」
先に書いた村落のアーティストが、宿舎から雨の降る町の中へ、女性二人が夜の10時位に傘を差しながら外へ出て行った。しばらく歩いて、辻に立ち止まり、鞄から出したラーマーヤナ経典を雨の向こう側にいるだろうチャンドラマ(月の神)にお祈りをしていた。満月の日に拝む彼女らにとって、見えない月に向かってお祈りする。
インドでは先住民、少数民族は、もっともインドで先住民族というのは御法度で、我こそこの地の先住民という紛争が起きるので部族民と呼ばれる。科学が発達して現代社会の共有した考え方によって、アニミズムの時代にあった自然や宇宙に対するコミュニケーションが極度に薄まることになる。しかも今ではスマホの出現で人々はより自然とのコミュニケーションは希薄となっていくことは否めない。しかも自然の少ない大都会が巨大化していく傾向がある。自然との共生が永年叫ばれる中、どのようにしたら新しい未来社会を築くことができるのか。
今年日本のアジアでの貿易総額が50%を超えた。日本の未来の準備のためにその対応に博物館、美術館、文化施設、教育、国際交流団体は意識を持って少しは動くべきだと思う。日本の様々な文化の中で、日本人は自然を愛で、人と自然とのかかわりを俳句や和歌、それを表現してきた、あるいは競い合ってきた伝統がある。人だけが生きているのではなく、あらゆる生き物や広大な宇宙の中で生きているという実感を取り戻し、間違いのない、未来を創造していかなければならないと確信する。その意味でもインドの500に及ぶ少数民族や宇宙観が豊にある古典舞踊の紹介と日本全国に住む方々との国際交流の推進は大変意義あるものと考えられる。

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長谷川時夫に関係する推薦文
2017年度 国際交流基金地球市民賞への推薦文
 平取アイヌ文化保存会 会長 貝澤耕一 氏

 私たち北海道二風谷にある平取町アイヌ保存会とNPO日印交流を盛り上げる会との出会いは2002年の日印国交樹立50周年を記念して開催された上野公園での「上野メラー」に参加したことから始まります。
 戦後50年というのは大きな節目、日印国交樹立50周年というのはインドと日本の国際交流としても大きな節目の年でした。国家催事とは言いながら、なんと民間のしかもお聞きすれば新潟の十日町の山の中、冬には4mを超える雪が積もるところに住む人が日本で開催される交流年祭事の目玉のインドのフェスティバルを開催するとのことでした。主催団体の名前は日印国交樹立50周年を盛り上げる会、この会は同年よりその後法人格をとりNPO法人日印交流を盛り上げる会となったのです。私ども8名が呼ばれた理由は、インドは多民族国家であり500を超える少数民族、先住民が暮らす国。その多民族国家との国家催事には日本の先住民である日本が誇るべき文化をもつアイヌ民族が、参加すべきであると考えて招待されたとのことでした。
 明治に制定された北海道旧土人保護法はアイヌ文化振興法が1997年に成立、施行されそれに伴い廃止され、土人という言葉がなくなりました。その後2008年国会において「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で決議されましたがアイヌに対する権利、文化理解や歴史的様々な問題に対しては無知で何も考えられていませんでした。
 「上野メラー」会場は、設置されたステージがある噴水広場でのインドフェスティバル。開会式は上野動物園で開催されました。戦後ネルー首相が東京下町の小学生達からの手紙から、自分の愛娘の名を付けたインディラという象を日本に寄贈。そのインディラが亡くなった話を聞いた防衛大臣フェルナンデス氏が前年に上野動物園に寄贈したスーリヤという子象が、職員を載せて開会式場に登場しました。子ども達や、ネルー首相に手紙を送った当時小学生だった婦人達、インドの音楽家たち、民俗絵画アーティストたち、台湾が見られるような日本西南端の島、与那国からも蛇味線を弾き語る人まで参加しました。後に首相となった福田官房長官、インド大使がスーリヤにバナナをあげるなど記憶に残る出来事でした。
 そして2008年から昨年までアイヌ文化振興・研究推進機構からNPO日印交流を盛り上げる会が助成を得て、保存会は招聘され毎年12名から15名、ナマステ・インディアのステージ公演やセミナーハウスでの講演会を継続して行いました。2013年より、ナマステの会場内に「アイヌハウス」が設けられ、アイヌ文化を紹介する基地を通してアイヌ文化をさらに紹介していきました。保存会の一人が、保存会が招かれ継続して紹介されても私たちの住んでいる平取町があまり感心を示さずこのままでは続かないかもと理事長にお話しすると、翌年早速平取町を訪れ、助役や産業課長と話し、その年にはアイヌハウスに平取町の産業課も参加するようになりました。今ではナマステ・インディアを通した地域活性化のアイヌ文化紹介の機会となっています。
 ナマステ・インディアに継続して参加するうちにインドに行ってみたいという私の希望を受けて、2013年には国際交流基金、アイヌ文化振興・研究推進機構の2つの助成を取り付け、インドのコルカタ、ムンバイ、デリーでの公演が実現しました。ナマステ・インディアにインド政府が派遣したグループがコルカタではプルリア・チョウ、ムンバイではペナーズ・マサーニー(ガザールの女王)、デリーではセライケラ・チョウのグループ、またナマステで人気のあるデリー在住のインド人演歌歌手チャダさんが応援出演してくれました。この時の参加保存会メンバー総勢18名という規模はアイヌ文化史上はじめての大規模な国外国際交流となったと思います。
 ムンバイではナマステでもよく交流していたインド先住民ワルリー族の村を訪ねることがでました。今でもワルリー語を話したり、ワルリーの神を信仰していることを現場で見ることができました。子どもたちが歓迎して素晴らしいタルパーダンスを見せてくれました。私たちもムックリを教えたり、ワルリー画の大家のジヴヤ・ソーマ・マーシェさんの家にも訪問し、絵の寄贈を受けるなどしました。ワルリー族の人たちとはナマステで何度も会っていますが、素朴な家や生活、そして自分たちの独自の文化を今も伝えていることを知る機会となりました。インド訪問でそれぞれが感じたことを帰国後、報告書としてまとめ、記念としています。
 代々木公園のナマステ・インディア、世界最大級のフェスティバルに参加したとき、賑わう会場からは、「どうしてアイヌ文化がインドフェスティバルに?」という声が聞かれましたが、理事長がステージや私の講演場所で何度も多民族国家インドとの交流には、日本の先住民アイヌ民族がともに紹介されるべきだと聴衆に呼びかけ、数年でそのような声は聞かれなくなりました。
 今年はアイヌ文化財団の助成が受けられず、理事長は招聘するためにいろいろと動かれているようです。現在自費でも参加するという保存会のメンバーは10人となりました。
 国際交流とは何だろうか。日本の国内にいながら外に置かれているものに目や心がいかなくて、自分の趣味や好きなことだけに交流するのが国際交流というのだろうか。自国の歴史やそこに住む人々の悩みや弱い立場にいる人たちへの視点を忘れず、掬い上げ、真の意味での国際交流を継続して行っているNPO日印交流を盛り上げる会は地球市民賞に正にふさわしい会だと私は思います。2020年の東京オリンピックの開催までに白老町に国立アイヌ文化博物館(仮称)が作られる予定となっています。私たち保存会が、ナマステ・インディアという2日間で20万人訪れるという国際文化交流フェスティバルに参加しアイヌ文化を紹介することになってから、今年で10年目となりました。
 真の国際交流、文化紹介とは何が大切なのでしょうか。当事者が表現する事が本当の文化交流では、その事を大切に守っているのが「NPO日印交流を盛り上げる会」であり感謝しています。

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長谷川時夫に関係する推薦文
2017年度 国際交流基金地球市民賞への推薦文
 東大寺 二月堂院主 平岡昇修 氏

 今年、6回目の東大寺での菩提僊那継承事業は回廊改修のため大仏殿中門をステージとしての開催ではなく金鐘ホールにて行われました。
 開会の点灯式に私も参加いたしました。在大阪・神戸インド総領事はその後の祝辞で「今日ここでの事業は、2017年日印友好交流年のハイライトです。」と述べられました。その2日前、インド大使館でインド政府よりこの催事に派遣された武術グループカラリパヤットの公演前に私もボランティアで駆けつけ、菩提僊那のお話をいたしました。当日はインド大使館として公式な皇室からの大使館へのお成りは初めてとのことで、高円宮妃殿下がインド大使の隣に座られていました。会場エントランスには、私もアドバイスとして協力させていただきましたが、2015年に当時のワドワ大使、ナーランダー大学副学長、前田専學氏他関係者の方々とインド人の顔立ちをした菩提僊那像を作ろうという長谷川氏の尽力によりインドで造像した1m座像が設置されておりました。天皇皇后陛下が、2013年に53年ぶりにインドを訪問され、大統領官邸での公式晩餐会で次のように述べられました。「貴国と我が国とは地理的に離れ,古い時代には両国の間で人々の交流はほとんどなかったように考えられます。しかし,貴国で成立した仏教は6世紀には朝鮮半島の百済から我が国に伝えられ,8世紀には奈良の都には幾つもの寺院が建立され,仏教に対する信仰は盛んになりました。8世紀には,はるばるインドから日本を訪れた僧菩提僊那が,孝謙天皇,聖武上皇,光明皇太后の見守る中で,奈良の大仏の開眼供養に開眼導師を務めたことが知られています。この時に大仏のお目を入れるために使われた筆は今なお正倉院の宝物の中に伝えられています。」。
 菩提僊那僧正は、東大寺では、東大寺および大仏創建の四聖の一人として、聖武天皇、行基上人、良弁僧正とともに手厚く供養して参りました。
 長谷川氏は日印交流のはじまりとも言われる、日本に最初に来たインド人、インド僧、菩提僊那の偉業を両国の教科書に載るまで東大寺で菩提僊那継承事業を可能な限り継続したいと6年にわたって継続され、妃殿下がインド大使館にお成りになるという、実現に至りました。
 その始まりは2012年日印国交樹立60周年の年。当時のプラカーシュインド大使が大使館に数名を集め60周年事業委員会を開催したことからはじまりました。その時に長谷川氏は東大寺での菩提僊那継承事業を熱意をもって提言されました。そしてオリッシー舞踊団の派遣が決まり、いよいよ開催に向かっていたとき、予算の関係で、中門をステージにすることになっていたのですが、写真等を見ながらの長い時間をかけたインド大使、大阪・神戸インド総領事、文化担当官のビデオ通信対話の結果、中門が石畳のため、踊り手の足をいためる、邪魔な柱等の理由から開催を断念しました。それを夜聞かされた長谷川氏は私に連絡しました。インド留学の経験を持つ私からすると然るべきマットを敷けば可能ではないか、現場を見に来て結論を出しているのではないと思う、と答えました。翌日いつ会えるかと長谷川氏に尋ねられ、午後に時間が取れると言うと、必ず明日総領事を連れて参りますと言われました。翌日、新潟県十日町市から新幹線に乗り、車中から総領事に連絡をして、予定はキャンセルして重要なのでこの時間に来られるよう総領事を説得したそうです。そして、スラムドックミリオネアの原作者として知られるヴィカス総領事も現場を見られて了解をし、開催することになりました。その時、新潟の山の中に住む長谷川氏が東大寺まで来なければ、この事業は無かったのではないかと思われます。
 大勢の方々の協力で制作された菩提僊那像を東大寺に派遣されたグループの全国公演にも長谷川氏は持ち運び、出開帳のように様々な場所で人々が菩提僊那のことを知る機会を作られています。東京で開催のナマステ・インディア2015での菩提僊那座像公開式、毎年開催されるナマステ・インディアのインド大使の点灯式の後ろには以来菩提僊那座像が設置され、会場内にある菩提僊那ハウスには毎年インド政府がこの事業に派遣する舞踊音楽グループの公演写真や全国展開の模様が写真パネルで公開されています。2014年には東大寺にある同寸のレプリカの大仏の手を運び、人が賑わう催事に設置されたこともあります。
 インドと日本の国際交流は、仏教を通し、あるいは菩提僊那を通し、その交流の脈絡はとても深く、現代の一時期だけの文化経済観光学術の国際交流だけにあるのではありません。日本という国内での歴史に深く目を向け、かつ現代における日印の国際交流を様々な困難を乗り越えながら、多くの支援者や自治体、国、インドと広げていくNPO日印交流を盛り上げる会は、いままでなかった自由闊達な国際交流を進めているように見受けられます。この活動の推進を願い、推薦の理由といたします。

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長谷川時夫に関係する推薦文
2017年度 国際交流基金地球市民賞への推薦文
 一般社団法人 佐渡を世界遺産にする会 事務局長 佐藤一富氏

 私が長谷川時夫氏と出逢ったのは、平成2年頃かと思う。佐渡の最短航路をつなぐ寺泊航路から来るカーフエリーに乗って来るのを出迎えた。自分は当時佐渡郡赤泊村の観光振興係長だったと記憶している。船から下りると丁度お昼になっていたので、昼食を誘った。どんなものがお好みかと聞くとウドンか豆腐それに醤油があればいいという。彼はベジタリアンだったのです。彼の年齢は最初に会った時は、自分より相当年増だと思っていた。後で分かったことだが、同じ歳だと分かった。
 長谷川氏を紹介してくれたのは、当時赤泊村では日本青年奉仕協会という団体から1年間ボランティアということで1名派遣してもらっていたが、その団体の職員からの紹介だった。現在の総務省が派遣している地域おこし協力隊のようなもので、10年間続いた。そしてその内5人が定住することとなった。すべて女性で結婚し永住となったのである。
 長谷川氏からいろいろと話を聞き入れ、当時地方交付税として一律交付する地方創生事業のソフト事業があったことも幸いし、上司の承諾を得てやっと平成4年にインドのダガール家とママタシャンカールという古典舞踊団を招聘することとなった。
以降、17年間にわたり国際交流として異文化に接することができたのは、インドとの交流を盛り上げる会代表の長谷川時夫氏のおかげと感謝している。
 今までの内容は別添に概要をまとめた記録を参考にしてもらえば分かるように実に多種多様な異文化をこのような離島の辺地な村に来てくれたものだと思う。当時佐渡は1市7町2村の地方公共団体があった中で、このようなイベントで注目を集め、新聞、テレビなどにも取り上げられ、村長は満足であった。このようなことで次年度も予算が付きやすくなったことも継続になった要因と分析している。
 また、平成16年から島の10の公共団体が合併し佐渡市になった。このような経緯があって、自分は退職したが、市役所にある国際交流係に長谷川氏を紹介して、これまでに3回インドの古典舞踊等を開催し国際交流として定着している。まさに長谷川氏は地方創生の先駆者的存在だと思っており、文化は地方からだということを実践している日本でも稀有な人物だといえる。是非ともこれからも彼の行動に対してさまざまな企業からも応援して欲しいと願っています。

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長谷川時夫に関係する推薦文
2014年度 国際交流基金地球市民賞への推薦文
 公益財団法人中村元東方研究所 理事長 前田專學 氏

 文化大国インドは、経済事業であっても踊りや音楽を伴う演出をいたします。日本との文化交流事業では、インド政府のICCRが舞踊団等を機会あるごとに日本に派遣しますが、その決定は概ね2ヶ月位前です。日本では、単年度制をとっているために、何事でも1年以上前に計画され、議会の承認を経て4月から1年間に事業が行われるようなシステムになっていますが、これはインドのそれとは噛み合いません。成田空港までの経費、謝礼等をインド政府が用意し、日本国内でかかる経費をインド大使館がローカルスポンサーということで日本国内の文化団体、施設、国の機関、自治体等に働きかけても対応ができません。その状況下に屈することなく、全国的なネットワークを徐々に広げ、資料にあるような日本国内で比較する団体がないような画期的な活動をしているのがこの「日印交流を盛り上げる会」であります。
 インド大使館の文化担当官が、「日印交流を盛り上げる会」が協力してくれなければ、インド大使館は何もできないと言ったと聞いていますが、これは事実であり、決して誇張ではなく、「日印交流を盛り上げる会」は、今や日印の文化交流にとって不可欠の存在であります。
 単に活動の面だけではなく、同会の理事長長谷川氏は「日本の貿易総額の半分近くが東アジア、インドを含む地域に依るということは、そこで食べさせてもらっているわけで、それらの国からの、急な話は対応できないなどと言っていないで、20%位の予算をファジィに使えるように最初から用意しておけばいい。経済だけが交流して、管理社会が行き過ぎた日本が現実を見られないようでは生きていけない。明治開国以来、欧米諸国を模範としてきた日本は今、心が窮屈になっている」と語り、急速に発展しつつある東アジア、インドを含む地域に対する日本人全体の意識改革の必要性を強調されています。
 昨年12月天皇皇后両陛下が52年振りにインドを訪問された折り、大統領官邸での晩餐会で、陛下が菩提僊那の大仏開眼のことに感謝のお言葉を述べ、開眼式に使われた大きな筆が今も正倉院に残っていることをお話されました。歴史上、日本に最初に来たインド人、婆羅門僧正菩提僊那は、当時の日本国民の半分ちかくが延べでかかわったとされる大仏建立事業の開眼式を聖武上皇の代理で勤めました。1万人の外国人僧を含む僧達、上皇をはじめとする多くの人々が参列したと伝えられています。2年前に行われた日印国交樹立60周年事業の目玉として、インド政府が菩提僊那を東大寺において継承する事業が「日印交流を盛り上げる会」の熱意で実現いたしました。その継承事業を継続し、今年の3年目には奈良県知事も参加され、日印の交流が地域振興や大事な歴史を掘り起こし、新たな日印交流となりつつあります。同会の長谷川理事長は日印両国の教科書に菩提僊那の偉業が載るまで続けると言う堅い決意で、来年も継続しようとしておられます。
 さらにこの団体はインド文化を通じ、新たな国際交流を創造し,未来へ向けたメッセージを発信しています。例えば日本商工会議所、日印経済委員会から2005年にナマステ・インディア(第1回1993年)を引き継ぎ、場所を築地の西本願寺から代々木公園に移し、育み、発展させ、今日ではインド大使館より、インド国外では世界最大規模のインドフェスティバルと公認されるほどの「ナマステ・インディア」に成長させました。
 また「日印交流を盛り上げる会」は、多様な民族と多様な文化の国インドとの交流には、単一民族国家と思われがちな日本にアイヌ民族とその文化があることを知ってもらうべきであるとして、北海道二風谷から5年にわたりアイヌ文化をナマステ・インディアのステージで紹介しました。昨年はアイヌ文化史上初めてという規模の総勢21名がインドで3公演を、来日したこともあるアーティストとの共演・協力も得ながら実現いたしました。
 報道によると8月31日にインドの新しい首相モディ氏が来日の予定です。これに合わせるかのようにインド文化省が10月から日本においてフェスティバル・オブ・インディア(インド祭)を開催することになりました。舞踊・音楽・映画・インド料理・写真展・展覧会等が日本国内で開催される準備が始まっております。インド大使館からの要望に応えて「日印交流を盛り上げる会」も活動を開始いたしました。目玉としては国立コルカタ博物館の貴重な仏像やレリーフ等紀元前3世紀から紀元8世紀にわたる貴重な文物60点近くが公開される予定です。この仏像展(仮称)は上海での開催がすぐ決まり、香港、シンガポールでも開催されます。それぞれ匡の国立博物館で開催されるものと聞いております。
じつはこの仏像展の話が日本に伝えられたのは6月初め、日本では今年の12月までの開催予定だったと聞いています。しかし日本の国立博物館は、特に東京国立博物館は、5年前から事業をスタートさせ、遅くても3年前から準備されるのが通例であります。大手新聞社やNHKが会場を借りて開催することがありますが、それも1年先はほぼ決まっています。そのために、嘗て1988年に開催されたインド祭でも、2007年からの日印交流年でも、インド政府がこのクラスの展覧会を日本で開催しようと努力したにもかかわらず不可能であったと仄聞しています。「日本以外のアジアの国ではそれが可能なのに。」と長谷川理事長は慨嘆されたと聞いています。しかし今回は同理事長の持ち前の信念をもってアジアとの文化交流の重要度、日本の経済的立場、等を熱心に説いた結果、東京国立博物館の英断により奇跡的にも来年3月から2ヶ月間同博物館での開催が決定いたしました。開催時期の変更を可能にしたのは、インド大使館の文化担当官および大使による本国への粘り強い説得によるものということです。また会場が決まった後、今年度の余分な予算を持っていない東京国立博物館の状況の中で、スポンサー探しはインド大使館の文化担当官と長谷川理事長が二人三脚で努力し、幸い大手新聞社がスポンサーになることを決めたと聞き及んでいます。
1963年ネルー首相の特別な計らいで総裁三笠宮殿下、名誉会長総理大臣池田勇人、顧問岸信介という日本の要人が名前を連ね開催された「インド古代美術展」以来の展覧会となるものと確信しています。「日印交流を盛り上げる会」が長谷川理事長の強力なリーダーシップのもと、こつこつと全力で取り組んでおられることが、国の形を少しでも良い方に導いていくことになるとするならば、これこそ真の国際交流ではないかと思います。
 私自身も、長谷川理事長の高邁な理想と私欲なき行動力に魅せられて、ナマステ・インディアの集会や菩提僊那事業に講師として協力させて頂きました。ナマステ・インディアの参加者は年々増え、今は20万人を超える人々が訪れるようになっていますが、数年前に私どもの公益財団法人中村元東方研究所が運営している東方学院に、「楽しいことや食事だけでなく、たとえ聞き手が一人でも講師がお話をしていくようなハウスを設けたいが、ご協力していただけないでしょうか」という長谷川理事長の提案がありました。そこで早速「東方学院ハウス」を設営し、研究所の研究員や学院の講師たちが、ボランティアで、インド音楽や仏像彫刻などを交えながら、インドの哲学や宗教の話をし、多数の人々の人気を集めて参りました。私どものようなまことに地味な存在でも、この様な形で日印文化の交流に貢献できるのは、「日印交流を盛り上げる会」のお陰であります。 
以上述べた諸理由と「日印交流を盛り上げる会」のもつ将来性、さらには益々重要さを増しつつある日印関係から判断して、同会を2014年度国際交流基金地球市民賞に最も相応しい団体であると判断し、強く推薦する次第であります。

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長谷川時夫に関係する推薦文
2014年度 国際交流基金地球市民賞への推薦文
 公益財団法人 日印協会 前事務局長 青山鑛一 氏

 2002年、「日印国交樹立50周年記念事業を盛り上げる会」は、日印国交樹立50周年という節目の年の両国の催事として、上野公園でインドメラー(インド祭)を開催した。
 開会式は上野動物園で行われ、福田官房長官(当時)がインドの日本に対する親日的な歴史的出来事をお話しされた。敗戦という不幸な状況の中で、子供たちがネルー首相に手紙を書き、それに応え、象が上野動物園に寄贈されたことや、その手紙を書いたかつての子供たちが数人、北海道二風谷のアイヌの方々数人、沖縄県与那国からも一人だが蛇味線を持って参加したほか、インドの芸能人、地元の子供たちや上野商店街の方々も参加していた。
そこに動物園の飼育係がインド政府が新たに贈った「スーリヤ」という子象に乗って登場した。噴水広場ではインド関係団体がそれぞれのテントの中で活動紹介。インドレストランや様々なインドのグッズ販売のテントも並んで大変賑わっていた。入り口のゲートの前には2m近い素焼きの巨大なガネーシャ神が設置されていた。多くの在日インド人や、もちろん日本のインド関係者多数も参加した。
 この催事を成功させる上で、日本外務省とインド大使館の若手館員が大変な協力をしたそうだ。噴水前の会場広場の使用許可は開催1週間前、官房長官の出席が決まった後、動物園の象の出番も同様に決まった、とこれを主催したNPO法人日印交流を盛り上げる会の長谷川氏は語る。
 前年に、「日印国交樹立50周年記念事業を盛り上げる会」として発足したこの会は、中根千枝女史を名誉会長とし、その年の後半に法人格を取得して、今日の名前となる。
 日印交流の歴史の中でインディラという名前をつけられた象が日本の子供たちに寄贈された歴史的事実を大事にし、日印国交樹立50周年という節目の年に、民間の団体が開催できた事に驚きを感じるとともに、我が国の若手外交官やインド大使館の同じく若手外交官が呼びかけに応えて動いたという話は、日印両国間の友好親善の表れとして特筆すべき話だ。在日インド人にとっても、この会に大変感謝したことは想像に難くない。そのような努力の積み重ねが、日本商工会議所、日印経済委員会が12回行っていた「ナマステ・インディア」を当時の経済的日本の停滞の中で止めることになったものを引き継ぎ、在日インド人、インド大使館の協力を更に得ながら、インド国外ではニューヨークやロンドンを超えて世界最大級のインドフェスティバルにこの会は大きくしていった。むしろ育んでいったと表現したほうがいいだろう。「世界最大級のインドフェスティバル」とインド大使館から使うことを勧められても、文化は数では計れない、オリンピックの記録でもあるまいしと、日本最大級と表現している。
 2005年に最初に開催した時は200万円ほどの赤字で、理事長の長谷川氏は出店者でもあった在日インド人の方々に頭を下げ、寄付を要請しに回った。今では20万人を超えるインドフェスティバルとして内容も充実してくると、ナマステ・インディアに招聘、あるいはインド政府が派遣したインドからの舞踊グループを事務局のある新潟県十日町市の山の中で滞在してもらいながら、土日に全国各地で開催されるインドフェスティバルに自ら運転するマイクロバスやワゴン車で無償に近い形で参加し、フェスティバルの盛り上げに一役をかっている。
 各地の在日インド人がナマステ・インディアの成功を受けてインドフェスティバルを立ち上げ、9月後半に開かれるこの催事の後の週末に日程を決め、盛り上げる会と連絡を取り、現在でもナマステ・インディアにくる舞踊団が参加されることを要望している。当然いくつかのインド祭のアドバイザーになったり、立ち上げる時の相談役に長谷川氏は自ら旅費を出し現地を訪れている。
 こうした要望をしていくインドの人々は多くは経済人であって、現実は問題も多く発生する。それは当然招聘するアーティストやインド政府が派遣するグループをオーガナイズする時も同様だ。にもかかわらず「盛り上げる会」の進める国際交流が成功していく理由の一つに対して長谷川氏は雪だと答える。雪は忍耐力を育む。
 事務局のある十日町市の市街地から8キロ程山の中に入った廃校の小学校を使った美術館は、冬には4mの積雪となる。41年前に前衛音楽家であった長谷川氏は美しい月を求めて東京からそこの場に暮らし始めた。急速な過疎化が始まり、離村する村人から家の購入を求められ、雪掘りさえすれば建物を残せると一軒購入。すると次から次と話があり、現在は4軒の古民家を保有、2軒を借りる形で維持、小学校まで使うことになる。「大きな建物とスペースが文化を生む」という長谷川氏の言葉通り、ナマステ・インディアの象の広場やフォークアートの広場で評判の等身大のハリボテ象や巨大なテラコッタの馬や神像群、展示や施工に必要なパネルや膨大な置き台など、使用された後こうした建物に保存される。そしてフェスティバルの度に出てくる。インド政府が派遣したフォークアーティストたちが長谷川氏の運営する美術館で制作し、それらがナマステ・インディアで展示され、参加した人々に感動を与える。
 日本の国際交流で最もお金のかかるのが滞在、宿泊、移動だといえる。そうした国際交流を推進する時の壁を努力によって解消している。つまり自由に使える大きなスペースを持つ過疎地と人が集約する大都会のイベントを組み合わせることで、他のイベントにはない独自な文化的な催事を生み出している。
 2006年から2008年にかけて開催された「日印交流年」の時にインド政府ICCRは、日本に25の音楽・舞踊グループを派遣した。その殆どすべてに盛り上げる会は協力し、北は利尻から南は与那国まで116公演を実現した。それを1枚のポスターを作り、その開催マップを全国の開催地に送った。離島は言うに及ばず、アイヌ民族が住む二風谷村、火山噴火のあった三宅島、中越地震で最も被害を受けた川口町、小千谷市、山古志村の住民が避難していた仮設住宅へも訪れた。
 長谷川氏が雪の森に入った頃は町から8キロといっても道路の除雪はされない時代、4mを超える雪がおさまる時でなければ町に行くことはできなかった。蓑を着て町へ下りていくと、町の人から山奥の人という方言で呼ばれる。その言葉には蔑視の言葉が含まれていることを感じ、日本のいたるところで見られる差別などの縮図として感じ、つまり都会から地方都市、地方都市から町村、町村から村やより辺境な地の人々への差別、そしてその痛みを感じたそうだ。そうしたことは弱い状況にいる人たちへも思いを馳せることにもつながっていった。
 1988年日印の国家催事の時に事務局を訪ね、当時大都会だけで開催予定の「インド祭」に対して事務局長に「どうして地方で開催しないのか?」と話したことがきっかけで協力することになり、小山五郎氏を会長とする日本委員会の事務局長補佐になる。その時「国家催事は全国民のものでなければならない」というコンセプトを考え、それを実践して実現した。その後の二国間交流で経験を積んでいく。度重なる失敗と赤字になりながらも継続し、今日に至ったそうである。
 日印国交樹立60周年は2年前に開催、その時はインド大使館のアドバイザーグループの一人になっている。日本国内では東大寺の協力を求め、インド政府が1276年の時を経て、僧菩提僊那を継承する事業を開催。今年は3年目になる。
 在インド日本大使館からの協力要請に応えて、60周年事業の目玉として能の観世流の宗家観世清和氏を団長とする2公演をインドで実現する。当時東日本大震災の後であり、催事は決まっていたが、国内で募金を集めない方がいいという上からの要望がこのような催事に募金元となる日本商会議所に待ったがかかっていた、そうした中で何かできないかという連絡が長谷川氏のところへ入ったようだ。長谷川氏はフランスのオペラなど歌手は生活支援がもらえる。それに比べユネスコ無形文化遺産日本第1号の能は市場経済に任されている。このような状況下で地味な能を維持するのは困難だと考えている。日本経済のインドに対する重要度は増し、1,000社を超える企業の進出が起きている。しかしながらインドで活躍する日本の経済人は能を見たことがあるだろうか。この人たちが文化大国インドで活躍するというのは、と発想し、入場料を払って能をパートナー企業のインド人と共に観る機会になれば、大変な状況下にある能の人々にも少しでも足しになるかもしれない。また予算がたくさん集まれば地味なものはいつも片隅に置かれてしまう。二国間交流というのは相手の文化が理解できないようなものでもかまわない。その国が評価しているものを尊重し、敬意をはらって体験するべきだと長谷川氏は考えている。「盛り上げる会」の活動歴をただ見ただけでは分からないところが、あるいはそこに隠された様々な思いが見えないと思う。
 昨年ナマステ・インディアに5回ほど参加した北海道二風谷のアイヌ文化保存会のグループをインドで3公演行い、ムンバイではインド先住民ワルリー族の村も訪れている。このワルリー族のアーティストとはナマステ・インディアでも交流があった。最後のデリーでの公演の日は天皇皇后両陛下が大統領官邸に招かれた日。この時はナマステ・インディアに参加したセライケラ・チョウのグループ、デリーで経済人となっている演歌歌手のチャダも参加。彼も毎年ナマステ・インディアに参加しフアンが増え、長谷川氏との出会いから新潟県十日町市の懐メログループとの交流が始まり、そのフルバンドが盛り上げる会の協力でチャダと共に3年前にインドで3公演を行っている。このデリー公演の後、素朴なアイヌの踊りにインドの人たちが大きな拍手を送る姿を見て、クールジャパンでアイヌ文化を紹介すべきだと、それも6人くらいではだめで今回のように年配の人も含んで最低で18人くらいいれば充分に世界で通用すると考えたそうだ。
 日印交流を盛り上げる会の活動はまさに地球市民賞に相応しいのではないかと考えます。催事や交流を重ねるということではなく、長谷川氏が言うように、文化はやはり人としての魂を磨き、弱い者へ目配りする視線をもち、「人と人」という難しい壁を忍耐強く越えていくものと思います。

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