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宇宙の森から文化を発信

JAPAN AND THE WORLD

音楽家・長谷川時夫さんが、自然との対話を求め、新潟県十日町市の山奥に暮らすようになったのは1972年のこと。以来、この大池の森から、インドの民俗文化を発信してきた。そんな長谷川さんの活動を追ってみた。


新潟県十日町市の大池にある「ミティラー美術館」で、インドからやってきた画家のジャンガル・シンの創作を見守る館長の長谷川時夫さん。シンは、インド最大の先住民ゴンド族の祭祀的な伝統文化を継承してきたパルダーン族の画家。伝統的な技法を駆使し、今日的テーマにも取り組む、インド民族芸術の期待の星の一人だ。
   この美術館には、現在1300点のミティラー画コレクションがあるが、日本で制作されたものだけでも300点以上にのぼる。シンの作品のような他の民俗画も併せると膨大な数の名作がここには収集されている。


 日本列島の降雪量を示した一枚の地図。その地図上の真っ黒な色で塗られた小さな地域がある。新潟県の魚沼地方だ。村落を形成している所では、世界でも最も雪深い場所だと言われている。そしてそのほぼ中心に十日町市の大池がある。標高430メートル。尾根と尾根に挟まれた台地に水を湛えた静かな湖である。冬季は4メートル近い降雪のため、凍結した湖面は一面の雪原と化す。世界一のコレクションを誇る美術館は、そんな大池を見おろすようにして小高い丘の上にあった。
 ミティラー画とは、インド・ビハール州北東部に位置するミティラー地方において、古来より女性たちによって伝承されてきた壁画である。この地方では、太陽や月の運行に合わせた儀礼の際に、宇宙創造の自然神やヒンドゥーの神々が素朴な家の壁に描かれてきた。
 こうした壁画の数々は1934年にビハ−ル州を襲った地震で崩壊した家々から発見され、イギリスの行政官によって世界各地に紹介された。1960年代の後半には、故インディラ・ガンジー首相の発案で、旱魃による飢饉救済のため現地の女性たちに画用紙を配り、壁画を民俗画として蘇生するプロジェクトが開始された。こうして誕生したフォークアートは欧米諸国でその芸術性を高く評価される一方、現地の女性たちの自立のための手段としても確立されていった。 それにしても、雪深い山奥にどうしてミティラー美術館なのだろう?


赤泊小学校で、小学生を対象に行われたアジアとアフリカの音楽家たちとのワークショップでそれぞれの国の楽器の説明をする長谷川さん。このワークショップには、中国、韓国、マリ、セネガル、ギニアの音楽家たちが参加した。

 館長の長谷川時夫さんは、1948年東京の浅草に生まれた。1969年、21歳の時に前衛音楽グループ「タージ・マハル旅行団」を結成。ロックやジャズ、前衛音楽の分野から7人のミュージシャンが集まり、その三者の融合を図りながら、東洋的な音づくりを目指した。何よりも即興演奏を重んじ、自然の音を取り入れた宇宙の和音を感じさせるような音づくりの試みは、当時としては極めて斬新な実験音楽として高い評価を受けた。
 23歳の時、「タージ・マハル旅行団」は1年間にわたるヨーロッパ・ツアーに出た。外国語が苦手な長谷川さんは、ツアー先で言葉を使う機会が減り、その分、周囲の環境に対する感性がどんどん研ぎ澄まされていった。自分のまわりには常に風があり、自分は月や太陽と共に生き、やがて土に還るものであるという当たり前のことを強く意識するようになったという。
 日本に帰ってきた時、東京はちょうど光化学スモッグがひどい時代で、空は常にどんよりと曇り、今にも泣き出しそうにしていた。彼はそんな日々を暮らしながら、飲むたびに旨いと思える水、心から呼吸できる朝の深呼吸、美しい月といったものは、人が生きる上で最も根元的なものではないかと考えるようになった。一度そう思うと、そうした思いがますます強くなり、彼は月の美しい地を求め日本全国を旅するようになった。そして探し当てたのが、新潟県の十日町市にある大池だった。長谷川さんは、この大池を宇宙の森と呼んだ。長谷川さんはこの森でコンサート活動をしたり、
フリースクールを開いたりして、自給自足の生活を心から楽しんだ。 

新潟県赤泊村の中学校の体育館で、西アフリカのマリ共和国からやってきた音楽家ママドゥ・ドゥンビアと本番前の打ち合わせをする長谷川さん。最近ではインド文化だけでなく、世界各地の民俗文化を紹介する仕事が増えてきている
 しかし長谷川さんがこの森に移り住んだ1970年代は、日本列島全体で急激な都市化が進み、その波から取り残された村々が過疎化していくという時代だった。冬季は車が使えず、十日町市の中心部まで1時間半もかかるという大池地区もその例外ではなかった。23軒あった集落が櫛の歯が抜け落ちるようにして次々とこの森を捨てていった。
 そして1980年、そんな過疎化を最も象徴する事件が起きた。大池小学校の廃校である。廃校に伴い、市ではこの地区の再開発計画を立てた。池をコンクリートで固め、周囲の森にアスレチックコースとテニスコートを造成するというものだった。
 この計画を知った時、長谷川さんは思いあまって十日町市長に会いにいった。「自然というものは、いったん手をつけるとなかなか回復するものではない。百年、二百年先のことを考えて、出来るだけ手をつけずに森を残すことが大切ではないか。廃校になった小学校は都会から来る人々の受け入れ施設として活用し、森の文化を発信する拠点とする方がいいのではないか・・・。」
 その後、こうしたやりとりが何度も繰り返された。その間、長谷川さんは大池の環境調査報告書を提出したり、この地区を守るための賛助会員を集めたりして、市との粘り強い交渉を続けた。そして計画が発表されてから1年、大池の森は残されることになり、校舎は彼に管理が委ねられることになった。
 そんな時、たまたまインドから帰ってきた一人の青年が訪ねてきた。彼は長谷川さんに持参したミティラー画を見せてくれた。長谷川さんがミティラー画を見たのはその時が初めてだったが、その素朴な絵の中に満ちる静謐な宇宙観に心を打たれた。長谷川さんはこの不思議な絵を導きの糸にしようと決めた。 


 谷川さんは早速インドに赴き、ミティラー画の収集を開始した。ビハール地方は、インドの古代叙事詩『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』の舞台になっている所でもある。長谷川さんは現地に何度も足繁く通ううちに、絵の素晴らしさとともに、この地方の豊かな精神性にますます引きつけられていった。
 1982年5月、「ミティラー美術館」がオープンした。その開館を祝して、インド大使館の文化担当参事官も列席してくれた。開館から半年後には、ミティラー画の巨匠・ガンガー・デーヴィーが来館し、そのまま滞在していくつかの貴重な作品をこの地で制作していった。以来、ミティラー画の作家以外にも、素焼きのテラコッタを作る作家やゴンド族の儀礼画を描くアーティストなどを招聘し、彼らに半年以上滞在してもらい制作を依頼した。
 こうして美術館としての内容は年々充実していったが、交通の不便な地に観客が押し寄せるということはなかった。多い時で年間2000名ほどで、入館料だけでは美術館を運営していくことは到底不可能だった。 

セネガルからやってきたパーカッション奏者ラティール・スイと打ち合わせをする長谷川さん。後ろにあるマイクロバスで、長谷川さんはいつも音楽家たちを目的地まで連れていく。自ら運転したり、宿泊先を相手の市町村に提供してもらうことで、長谷川さんは必要経費をとことん切り詰めるようにしている。破格な低予算でプロデュースを引き受けるから、小さな市町村でも国際交流事業が可能となるようだ。
 1983年、インド政府観光局が香港で彼のコレクション展を開催した時、一つの転機が訪れた。その時、長谷川さんは香港から足を伸ばし、中国東北部の広西チワン族自治区を訪ねた。そこで彼は少数民族が大事に守ってきたコスモロジーの文化に出会った。その思想から音楽、衣服の文様に至るまで、その一つひとつにいたく感動した長谷川さんは、門外不出であった貴重な文物を4年がかりで借り出すことに成功した。
そして1987年に地元十日町市で展覧会を開催。ここを起点に全国を巡回し、展覧会は極めて好評のうちに東京で幕を閉じた。長谷川さんは、地方から文化を、それもコスモロジーのある文化を発信できたこといたく満足した。
 1988年には外務省が主催するインド祭の事務局長補佐となり、北海道の網走から沖縄の与那国島まで、インド文化を紹介して回った。以後、大池という小さな森から、ミティラー画やインド舞踊、インドの古謡などの紹介を中心にして、小さな市町村との国際交流を続けてきた。そしてその功績が認められ、1998年には国際交流基金の「第14回地域交流振興賞」を受賞した。 
「ミティラー美術館の最大の展示品は、闇夜にやってくる澄んだ月です」と長谷川さんは言う。「静かに月を眺めていると、自分が透明になり、いつしか宇宙にいる自分という存在が浮き彫りになってきます。こうした宇宙との交感を実感してもらうためにも、僕はこの大池地区の自然をいつまでも残していきたいのです。最近はプロデューサー業が忙しくて音楽家としての活動は行っていませんが、今の僕にとって、ここの自然を守っていくこと自体が一つの創作行為だと思っています」
 森の彼方に浮かぶ月に導かれて、長谷川さんはこれから何処へ向かっていくのだろうか? それは大池だけが知っているのかもしれない。
         (近藤 久嗣)
撮影/長岡洋幸



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