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LOOK JAPAN 2000年3月号
掲載記事 和訳 |
CULTURAL CREATORS 宇宙の森で自然と一体になって 新潟県十日町市に、大池という池のある森がある。そこには、廃校になった小学校を再生させたMithila Museumがある。ここには、インドからネパールにかけての地方名であるMithila 絵画の世界最大のコレクション がある。また、ここはMithilaMuseum の館長である長谷川時夫が創り上げた、自然と芸術作品の共生の場でもある。 「現代社会では、『宇宙に暮らしている自分』というものを実感することが非常に難しくなっています。私は長年『宇宙のエキスの濃いところ』、『月の美しい地』を求めて旅してきましたが、今から30年近く前にこの地にたどりつきました。そして私はこの地を『宇宙の森』と呼びました。しかし、この宇宙の森に開発計画が持ち上がりました。そこで、できればこの地を自然のままに残したいと思い、1982年5月に、このMithila Museumを開館することになりました。」と美術館長の長谷川時夫が語る。 「ですからこの美術館の最も重要な展示品というのは、この墨の闇夜に毎夜やってくる立体の月なんです。その意味で、Mithila Museumは、自然との深いコミュニケーションを持つ芸術文化を紹介しようと思いました。これは、21世紀に私たちが必ず必要とするものだからです。」 この宇宙の森の美術館に所蔵・展示されているのは、インド、Bihar州からネパールの平原にかけてのMithila 地方に、3,000年もの間、女性たちの手で描かれ続けてきたMithila paintings(インドではMadhubani paintingsと呼ばれることが多い) 約1,500点のコレクション(収集作品及びMithila paintingsのアーティストがこの地で制作した作品)、インド先住民族の一つWarli Adivashi によるpaintings、Pardhan Adivashi paintings, マニプール州メイティAdivashi によるテラコッタ等である。 <Taji Mahal Travelers> 1948年8月13日の金曜日に東京の下町に「16代目の江戸っ子」として生まれた長谷川時夫は、中学生の頃から既に、物質社会の流れの中で、東洋的な心の文化が一つの砦になるであろうということを予感していたようだ。そして1965年、彼が高校2年生のとき、ジャズミュージシャンJohn Coltraneの来日公演を見て長谷川は感激した。 「西洋文明とアフリカ文明の接点であるジャズ。彼の音楽以上に人の心に訴える強いものはないのではないか。」そう感じた長谷川は、アルバイトをして早速テナーサキソフォンを購入した。因みにこの頃The Beatlesの人気は世界的に高まり、1966年には日本公演が実現したが、長谷川は「(The Beatlesは)なんか軽い音楽という感じで、私は、もうちょっと精神性というか、より強いものを求めていたんですね。」と語る。 長谷川は7人の友人と、ロック、ジャズ、現代音楽の三角点の中間座標にありながら、東洋的なものを志向し、宇宙の動向に合わせて即興の時間性を大事にした即興演奏のグループ、Taj Mahal Travelersを結成して、演奏活動を展開した。1971年には、1年間にわたるヨーロッパ各地での演奏旅行も行った。長谷川は振り返る。「言葉が不十分だった分、それだけ感性が研ぎすまされていった感じでした。自分の周りには常に風があり、自分は月や太陽と共に生き、やがては土に還るものであるという、当たり前のことを非常に強く感じるようになりました。それは私が宇宙という世界により開かれていく旅でした。」 その後日本に戻り、大池の地にたどり着いた長谷川は、廃校になった小学校を「人々が、『宇宙にある己』を知るためのスペースとして再生したい」と考えていた。そんなとき、インドから帰ってきた野口妥(やすし)という青年が、長谷川に見せたい絵があると言って彼を訪ねてきた。 長谷川は続ける。「その絵がMithila paintingsで、そのときは、名前は知っていましたが見るのは初めてでした。私は、その何とも言えない素朴な絵の中に満ち満ちている宇宙観に心打たれました。」 <"Lion Eating A Young Moon"との出会い> 長谷川はこの素晴らしい絵を地元の人たちに是非見てもらいたいと思った。それならば美術館の開館にあわせて本格的なMithila 絵画展をやろうと思い立った。野口が苦労して集めた150点ほどの絵の中に一際際だった絵があるのを長谷川は見つけた。その絵を展覧会のポスターに使い、その絵に"Lion Eating A Young Moon"と名付けた。作者はGanga DeviといってMithila paintingsでは最も評価されている描き手であり、インドでは「Tagore後のインドで、Tagoreに比するエネジー」(故Pupul Jayakar女史、元インド文化遺産関係首相顧問)と評された人物であった。 長谷川は、展覧会に彼女を招いて壁画を描いてもらおうと計画したが、開館時には彼女は来られなかった。しかし、1982年9月、彼女のMithila Museumへの招聘が実現した。彼女は大池滞在中にKrishna and Radhaと題する直径1.8メートルの大作を完成させた。そして、2年がかりの大作Life from Birth to Death(写真参照)も、帰国後完成させて長谷川に、「私の絵を世界で唯一のMithila画の美術館に渡したい。」と言った。 この間、長谷川はインドMadhubani地方を10数回訪れてMithila画の収集にあたった。「Mithila画も放っておくと、日本の浮世絵と同じ運命をたどるような気がしたから。」また、長谷川はこれまで、Mithila画の描き手、Warli画の描き手らを毎年大池に招いている。その努力の甲斐あって、Mithila Musuemは「Mithila画の世界一のコレクション」の地位を確立した。1998年には、東京初め全国各地でのMithila画の展示会を成功させた。また、1998年のJapan Foundation Prize for thePromotion of Community-Based Cultural Exchange受賞の栄誉にも輝いた。1999年1月から3月までは、十日町市の商店街を美術館に変えてしまった、ストリートミュージアムの試みを成功させた。 実はGanga Devi作(長谷川時夫命名)の"Lion Eating A Young Moon"との運命的な出会いをした人物がもう一人いた。日本を代表するSF作家の一人、夢枕獏である。夢枕は述懐する。「ぎしぎしとなる床の上に立ったまま、その薄暗い部屋で、僕はしばらく動けなかった。その"Lion Eating A Young Moon"という言葉は、甘やかで、謎めいていて、神秘的で、しかも美しく、イメージがあり、言葉として新鮮であり、なおかつ、得体の知れないときめきを含んでいた。僕は、その時、自分が、この絵と同じタイトルの長い長い宇宙についての物語を書かねばならない人間なのだと、思い込んでしまったのである。運命のような出会いというのはあるのだ。」夢枕はその後10年間、何度も何度も中断し、幾度となく、「もうやめよう」と考えたが、1986年〜1988年まで、SFマガジン誌での同タイトルの小説の連載を続け、翌年大冊を刊行し、同書でその年度の日本SF大賞を受賞した。 <月は古くない> 1999年9月〜10月に、長谷川はインドで600年の伝統を守るsuper-classical vocalmusicianであるDagar Vaniの日本公演ツアーを企画した。長谷川は語る。「Dagarは600年の家系を誇りますが、音楽的に決して古くはありません。それは、Dagarの音楽には、自然と一体になるという哲学が常に働いていて、600年間切磋琢磨してきたからです。なぜならば、月を見ればわかります。月が何年前に生まれたかはわかりませんが、月は決して新しくもなく、古くもありません。昔の人が見た月はそのまま私たちが今見ている月です。要するに自然は決して古くなったりしないのです。ですから自然と一体になろうとする営みは、常に前衛的な新しさを持つものなんです。」 「これまで30年近くかかりましたが、自分のやってきたことが社会に受け入れられる素地が非常に大きくなってきたと思っています。これからも、現代社会に対して、人間の基準でものを見るのではなく、自然の側に身を置いた視点から、何か提言をしていければいいと考えています。」 長谷川は日焼けならぬ「月焼け」した顔をほころばせた。 BY NISHIMURA KUNIO(西村邦雄) (敬称略) |
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